スタジオ来訪
今週はまた別の録音スタジオに見学に行った。まだ建設中だったが、普通の四角形のスタジオとは違い、六角形の建築物で、床から壁から天井から三角形のユニットを組み合わせて作っているようだった。フラクタルがどうのこうのと言っていてよく聞き取れなかったが、水の結晶からヒントを得たらしい。自然の形態をまねているので、物理学的にも音響と調和するし、その形態そのものが音楽的ですばらしいと言っていたと思うが、よく分からなかった。説明してくれた代表者はなぜか感極まって泣いてしまった。何に感極まったのかはそれこそさっぱり分からなかった。
ただエンジニアは冷静なもので、演奏スタジオ内、エンジニアルームそれぞれの音設計を作る過程について淡々と説明してくれた。それを聞いて実際に音を聞いてみると、たしかに演奏者やリスナーがいる位置に反射音を集めるには六角形はよさそうだということは分かった。音メディアについて考えるときには、録音再生のデバイスまでで話が止まってしまいがちだが、いざこういう作りこまれた場所に行ってみると建築物も含めなければならないような気がしてくる。考えてみたら当たり前の話だが、使用する機器も家庭、ライブハウス、クラブ、路上では違うし、そこでの聞き手の振る舞いも変わる。そういう視点から書いている論文はエルキ・フータモ以外にないだろうか。歴史的な断絶に目を向けるキットラーのメディア考古学がいつまでも現在にたどりつかないのとは対照的に、モチーフ(「モバイル」や「ピープ」などメディアと身体の関係性)の歴史的な反復に注目する彼のメディア考古学の歴史観は魅力的にうつるけど、反復に歴史的なずれはないものかと疑問に思ってしまう。でも、あれだけの事例をあれだけ魅力的に読ませる腕はすごいし、彼がキュレーションする展覧会は見てみたい。
結局、今回もカメラを忘れたので、画像はありません。いざカメラをもって行っても何をどう撮ったらいいのか分からず、何も撮らないことが多いので、持っていこうが同じことかもしれない。
タイムスリップ
サマー・タイムが終わったことに気づかず、授業に行ったら誰もいなかった。僕だけ一時間ずれた時間を生きていたらしい。ショッキング。
- 作者: Robert Miklitsch
- 出版社/メーカー: State Univ of New York Pr
- 発売日: 2006/04/06
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対して、フレドリック・ジェイムソンのカルチュラル・スタディーズ批判論文も見つける。関連する文献も集める。
Late Marxism: Adorno, Or, The Persistence of the Dialectic (Radical Thinkers)
- 作者: Fredric Jameson
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The Political Unconscious (Routledge Classics)
- 作者: Fredric Jameson
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備忘録
週末は食料の買出しに行く。近くに店がないので、リュックを背負い、自転車で1時間。これをやらないと飯が食えないが、買出しの後は半分死んだような状態になる。体力だけはつきそうだ。昨日は若者たちに代わりにビールを買ってくれとせがまれる(IDを見せないと売ってくれないから)。買ってあげたらおつりをくれた。
帰りに面白そうな展覧会の情報を見つける。
The Record: Contemporary Art and Vinyl at Nasher Museum of Art
http://www.nasher.duke.edu/therecord/
アナログ・レコードに関連する現代美術展らしい。隣のデューク大学の美術館で開かれている。ジャスパー・ジョーンズやローリー・アンダーソンなどアメリカの美術家・音楽家をはじめ、日本からも藤本由紀夫らの作品が出品されている。サウンドを扱う作品は少なそうだが、めずらしいので近日中に行ってみよう。これはメモ代わりに。
アメリカン・ジョーク?
ゼミの間でたまに飛び交うアドルノについてのジョークが気になる。何を言っているのか、何が面白いんだかよく分からないが、あまりいい笑いではないことは分かる。ちょっと気になったので後でアドルノってどういう扱いなのか聞いてみたら、この国では絶対的に同意するか、絶対的に反発するかどっちかしかないんだと言っていた。具体的にどういうことなのかよく分からないが、やはり研究対象によって意見が分かれるそうだ。ポピュラー音楽研究でのアドルノの参照の仕方がずっと気になっているので、図書館で関連書を探してみる。小川博さんはアドルノはポピュラー音楽研究の「踏み絵」のようなものだと言っていたが、たしかにみんな踏まないと安心できないというか、とりあえず踏んでおいたら安心という態度をとりつつ、ネガティヴな形で依存しているような気がする。
アメリカで学生が必ず読む音楽系のアドルノ論集を聞いたら、これを薦められた。
- 作者: Theodor Adorno,Susan H. Gillespie
- 出版社/メーカー: University of California Press
- 発売日: 2002/08/19
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考えてみたら、英米圏でも日本でもわりとたくさんの翻訳が出ているのに、ポピュラー音楽の分野で参照される著作は非常に限られている。音楽・メディア論集が出てからも日本でそれに載っている論文を参照している人は見たことがないし、英米の論文でも管見の限り「針のカーヴ」論を書いているBarbara Enghの"Adorno and the Sirens”くらいだと思う(たしか以前に紹介した)。
この本も参照されているのを今のところ見たことないが、ポピュラー音楽の分野でアドルノ論をメインにしている研究者は少ないのでチェック。タイトルがいかしている。
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ライブ/録音 つづき
明日からみんなアメリカ音楽学会に行くらしい。行きたいけど、だいぶ遠いのでお留守番。
昨日書いたとおり、日本のライブ事情についてぐだぐだになりながら説明する。ひとまず、カイルは日本の録音受容についてエスノグラフィを提供しているけれど、なんだかアメリカ人から見て奇妙に見える事例を羅列しているだけのように思えたし、さらに最近の彼らにとって奇妙に見えるであろう事例を紹介する役割を与えられるのはしゃくだったので、そもそもライブ概念がどう形成されたのか、それが日本の録音受容と照らし合わせたときになぜ摩擦をきたしたのかを考えることにした。ライブ概念は録音との対立によって形成されたものだということを断ったうえで、ジョン・フィリップ・スーザの"The Menace of Mechanical Music"(1906)を取り上げ、ライブ概念が機能する文化的・経済的な条件について説明する。スーザの議論は、アマチュア演奏文化、感情表現、フォークロアの伝承、職業音楽家の経済基盤など多岐にわたるトピックを含んでいる。しかし、スーザは基本的には「演奏家」「演奏すること」を基礎にライブを擁護しており、演奏技能そのものが価値を持つ社会的な基盤を前提にしているように思われる(たとえばスーザを含め、職業音楽家や教育家は演奏技能そのものを商品にしている)。その上で、「演奏家」や「演奏すること」自体が文化的・経済的な価値を持たない文脈においては、ライブ概念はうまく機能しないのではないかと提案してみた。もちろん、日本も欧米の音楽文化を輸入しているから単純化はできないが、民謡やチンドンヤにおいては、演奏家や演奏すること自体はそれほど重要ではなかったりする。たとえば、チンドンヤは歩行者の注意を集めることを目的としているのだから、その目的にとって有用ならば、録音だって使うだろう、などと説明してみた。
我ながらかなり単純化された文化論だと思うが、外から聞くとけっこう興味深かったらしい。また置いてけぼりをくらって、みんな勝手に盛り上がっていた。でもライブ概念ってそんなに単純じゃなくて、演奏家の側が作ったものではなく、蓄音機の企業が作ったものでもある。たとえば、ジョナサン・スターンはそもそも録音とライブは比較されるものでも、対立するものでもなかったと言い、それらが対概念になり、録音をライブに近づけようとするようになったのはコンサートホールの聴衆を録音の経済の中に引き込むためだったと主張している。録音の経済から考えれば、ライブ概念は演奏家ではなく聴衆を、彼らの聴覚を基礎に据えているということになる。ライブは演奏家の経済と聴取の経済が絡み合うえらく複雑な概念なのになあ、と頭の中でもやもや考えていた。
ライブ/録音という対立にはあまり興味がなかったが(ディスク派だから)、オリジナルなものがそれほど単純ではなく、録音によって複数化されていることを考えるには重要な素材になると改めて思った。ちょっと気をつけておこう。
ライブ/録音
今日は授業にDJが忽然と現われて、スクラッチを実演してくれた。みんな興味深々で質問しまくっていた。ゼミもそうだけど、みんな考える前にとにかく喋る。がっちりした音楽学をやっている学生もいるし、メディア・スタディーズをやっている学生もいるけど、文脈の読みあいなんかしない。たとえば、リミックスについての議論では、音楽学の学生はリミックスとバルトークの引用は同じじゃないかと言い張って譲らなかったりするので、かならずバトルになる。すばやい応戦をしないと、そのままで通ってしまう。読んできた本をもとに、学生はとりあえずバトルして先生は適当にあいずちを打っている、そういうゼミ。持ってるものは何でも出す、相手の様子をうかがって後だしジャンケンを狙わない、こういう姿勢は見習うべきだと思う。
その中に割って入る語学力がぜんぜんないので、ただ聞いている側にいたが、日本の事情をしゃべってくれと言われる。それというのも自動ピアノの見学に関連して読んだChares Keil, "Live and Mediated in Japan"というエッセイ風の論文に日本のことが出てきたからだ。彼は1980年頃に日本に行ってだいぶショックを受けたらしい。というのも、彼はそれまでオーディオ再生機器はライブ演奏の劣った代用品に過ぎないと考えていたのに、日本ではいわゆるライブ演奏にそれらが使われていたからだ。盆踊りに行けば、レコードに合わせて太鼓を叩いているし、道端ではチンドンヤがラジカセを持ち歩き、カラオケではテープに合わせて歌っている。結構、当たり前のように思えるが彼にとってはショックで、人類学もオーディオ機器がフォークロアにどのように組み込まれているのかを考えなくてはならないと呼びかけている。1980年前後といえば、アメリカではもうディスコもヒップホップもあったし、何を言っているんだろうと思うが、日本はそれらを置いといて取り上げる価値があるほど人類学的に不純に見えたのだろうか。
ということで、僕に何が求められているのか分からないが、カイルが取り上げているものよりも不純に見える最近の例を紹介するべきなんだろうか。初音ミクのことはみんな知らないようなので、初音ミクのコンサートはぜひとも見せておきたいところ。ステージ上で3DCGの初音ミクが歌い踊り、人間が伴奏するコンサート。どんな反応がかえってくるか楽しみではある。うまく説明できるだろうか。
グールドの幽霊
気づいたら1年以上書いてなかった。このままだと消えてしまうので、ひさびさに復活。先月からノースカロライナ大学の音楽学部に来ています。生徒の半数くらいが大学のTシャツやパーカーを着ていて、その愛校心ぶりがちょっと鼻につく。
先週土曜日はゼミ(テクノロジーと音楽)の一環で、zenph studioという録音スタジオの見学に(http://www.zenph.com/sept25.html)。スタジオの名前になっているzenphは、音楽解析のソフトウェアのことを指している。それを使って何をしているかというと、グレン・グールドのレコードから打鍵のタイミング、キー・タッチ、ペダルの踏み込みの深さをMIDIコード化し、ヤマハの自動ピアノでグレン・グールドの「生演奏」を再現しようとしているという――スタジオのスローガンは”turning audio recordings back into live"。グールドが弾いたとおりにピアノが動くのだから、我々が聞いているのはグールドがかつて行った演奏と同じだというのが、代表者の考えらしい。ライブなんて言葉は結局、録音が事後的に生み出した現前性の幻想に過ぎないだろうと勝手に思い込んでいたが、けっこう複雑だということがよく分かった。このおじさんにとっては、演奏の一回性はどうでもよくて、ともかくグールドが弾いたとおりのピアノの動きが再現できればそれがライブ演奏なのだろう。
そう考えると、ライブという言葉にこだわっているにせよ、彼はいわゆるライブ派(レコードなんて缶詰だぜ)ではなく、オーディオ・マニアに近いのかもしれない。レコードからいかに原音を再現するかという点では両者の求めるものは非常によく似ている(ただし、両者の間には、あくまでレコードで原音を再現するか、レコードから音源そのものを復元するかという方法の違いがあるが)。しかし、それ以上に彼のやっている演奏の復元(彼によればre-performance)は、オーディオ・マニアの幻想を打ち砕く不気味な現実感を持っていた。鍵盤はもちろん、ペダルも幽霊が踏んでいるみたいに勝手に動くし、感動を覚えるどころかだいぶ怖かった。しかし、おじさんはそれを分かっているのか、レコードと自動ピアノを同時に再生させて、ほらまったく同じ演奏でしょなどと言っている。レコードと自動ピアノが召喚するグールドは、想定される起源は一緒なのだろうが、スピーカーから聞こえてくるノイズ混じりのピアノと目の前のピアノがやっぱり時制がずれていて、結局、おじさんが何をよみがえらせようとしたのかをはぐらかしてしまっているような気がした。おじさんはニコニコしてたけど。
しかも、さらにややこしいのが、おじさんは自動ピアノの音を録音して売っている。さらにやっぱりレコードと自動ピアノと同期してみせて、ほら忠実な録音でしょなんて言っていた。おじさんはたぶん本当は原音なんてどうでもいいのだろうが、たぶんライブとか原音という言葉にこびりついたものがおじさんの欲望をややこしいものにしているのだろう。話上手で、とても面白いおじさんだったので、思わずCDを注文してしまった。
グレン・グールド/バッハ:ゴールドベルク変奏曲(1955年)の再創造~Zenph Re-Performance
- アーティスト: ゼンフ・スタジオ,バッハ
- 出版社/メーカー: ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル
- 発売日: 2007/03/21
- メディア: CD
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