このアパートに住みはじめてからパソコンの調子がおかしくなった。それもそのはずでプロバイダのセキュリティが甘いらしく、パソコンをウイルススキャンしたら菌まみれだった。ブラウザがクラッシュしまくりでブログ書くどころではなかったが、マカフィーしたら少し立ち直ってくれたので、またちょっとずつ書きます。

そういえば、今日の授業は先生が出現するラジオ番組を教室に集まって聞くという変な授業だった(先生は自分の研究室で電話出演していた)。ラジオというのは遠く手の届かない声でないと、まったくありがたみを感じないもので、なんだか冗談のようだった。

■文献などなど
書きかけでストップしてニューヨーク行ってました。この年になってまさかの霜焼けになりつつ、New York Public LibraryのPerformance Art図書館を中心にいくつかまわって資料を集めてきました。それにしても今回はやけにあちこちでからまれたけど、坊主頭にしたからだろうか。

1920年代から1930年代の環境音楽の文献を中心に集めてきた。目的は生理学的・心理学的な音楽の言説および実践について考えるため。有名なミューザックは1970年代になってStimulus Progression Programという独自の方法で、疲労の進展にあわせた音楽プログラムをはじめるが、その端緒になったのが1920年代から1930年代の心理学研究だった。と言っても集めた1920年代ごろの文献は実証的な研究とはほど遠く、音楽を使うと疲労を軽減して労働の効率があがるよという程度のものだったので、ちょっとがっかりした。ただいくつか読んでみて、1930年ごろを境に工場内での音楽利用が楽団を結成するなど演奏を余暇活動として推進する方法から、労働中に放送で音楽を聞かせる方法へと切り替わったらしいということが分かったのはとりあえず収穫だった。それにはどうやら機械が立てる大音量のノイズによる疲労や倦怠、それによってひきおこされる手元への注意の低下を防ぐ目的があったようだ。1937年にStanley Wyattが発表した"Fatigue and Boredom in Repetitive Work"という研究がこの分野で実証的な研究をおこなった画期的な研究らしいのだけど、あいにく手に入らなかった(日本でも閲覧できるらしい)。関連する文献として、Mechanical SoundのCh3"A Continuous Buzz"、視覚文化の領域だがジョナサン・クレイリーの『知覚の宙吊り』も読んでおこう。

Mechanical Sound: Technology, Culture, and Public Problems of Noise in theTwentieth Century (Inside Technology)

Mechanical Sound: Technology, Culture, and Public Problems of Noise in theTwentieth Century (Inside Technology)

ついでに関連する問題領域として、音楽(音)を使ったマインドコントロールや変性意識状態の文献も集めてきた。医学人類学のトランス研究はたくさん見つかったが、メディア論的な観点からクラブカルチャーを扱った本なんかはないもんだろうか。それにしても、きわどい本ばかり注文するので、司書の目が痛かった。

サウンド・スタディーズ

■つくえ
隣の家族が真夜中に引っ越していき、棚やらなんやらを捨てていったので拾っておく。わりといい机と椅子も手に入ったのでようやく段ボール机から解放された。最近は真ん中がへこんできてまともに使えず、腰にもダメージがでていたので救われた。この気持ちは届かないだろうけど感謝。

■Sound Studies
最近は音響兵器としての音楽(音)とか、その別の側面であるミューザックについて文献を集めていたが、あまり際立った組み立ての論文も見つからないし、どうしても音楽研究の枠を出ないのがつまらないので、別の枠組みを用意するためにJonathan SterneのThe Audible Pastを読みなおすことにした。ちなみにスターンはウェブサイトで論文をアップしており、アナログ・メディアの続編となるmp3論文(新著となる予定)も公開している。ずいぶん待っているのだけど、mp3: The Meaning of a Formatと編著Sound Studies Readerは2012年に出版されるようだ。

The Audible Past(2003)は、音メディアにかんする近年の著作のなかでは最も重要なもののひとつだろう。しかし、聴取の歴史としてメディア史を考える彼の視点は、こと音楽研究では特異だったせいか、それとも彼が音楽にはまったくと言っていいほど触れていないせいなのか、今のところあまり紹介されていない(メディア論やメディア・スタディーズでの動向は詳しく追っていないので、また調べてみなければならない)。そろそろきちんと紹介する作業もしないといけないと思うが、それ以前にスターンの言う「鼓膜的な器具」としての複製技術の有効性が気になっているので、ヘルムホルツ『音感覚論』とJohn Durham Peters"Helmholtz, Edison, and Sound History"をあわせて読んでいた。気になったのはスターンがクレーリーを参照し、生理学における感覚の主観性(刺激と感覚の恣意的で流動的な関係性)にも触れながら、それでも複製技術を「鼓膜的な器具」という生理学以前の解剖学および音響学の領域に還元し、また「聴取の技法」も音響学的な観点から記述していることだ。そうしたのはおそらくスターンが電話もフォノグラフもラジオも包括的に複製技術として扱うことで、聴取の問題が個々の技術的な文脈に還元されてしまうことを避けたかったからだろう。それは分かるのだが、それでもやはり電気メディアが非常に早い段階から神経系のアナロジーによって説明されていたこと(逆もまたしかり)、実験心理学が電気的増幅やダイナミックレンジの前提となっていたことを考えれば、「鼓膜的な器具」では限定的すぎるし、同様に「聴取の技法」も考えなおさなければならない。引き続きヘルムホルツ関連を読みすすめつつ、アメリカでの心理学受容についても調べてみる。

音響兵器が気になったので、引き続き論文を探す。音楽と戦争というテーマではたくさん書かれているが、音楽が扇動に使われているというのは分かるとしても、ではなぜ音楽なのかということは問われないし、メディアが単に規模の問題としてしか議論されていないのは不満。その点では音楽ではなく音のレベルで扱い、音メディアを情動制御のテクノロジーとして議論していたSonic Warfareは、まああれこれ話が飛んではいたが面白かった。

Marty Cloonan and Bruce Johnson, "Killing me softly with his song", Popular Music, Vol.21/1, 2002, pp.27-29.
Popular Music誌に掲載された論文。筆者たちは、これまでのポピュラー音楽研究はポピュラー音楽を正当化するために、アイデンティティの自己形成のような解放的なemanvipative側面を強調してきたが、そうすることで消費者主義の空虚な称賛に堕してしまい、同時にポピュラー音楽の政治的に抑圧的な側面をほとんど無視してきたとまとめながら、こうした状況を再考するためにポピュラー音楽を領土の確保や他者の排除の手段として考察することを試みている。具体的には、

先行研究のおかげでポピュラー音楽を研究するための土壌ができたのは確かだが、金太郎飴のようにどこを切っても同じ論理で自己実現を言祝ぐ議論は、そろそろ縮小再生産の限界に来ている。アイデンティティの形成に対して、その破壊というのはちょっと単純な気がするが、とっかかりにはなりそうな論文だった。

How to Wreck a Nice Beach: The Vocoder from World War II to Hip-Hop, The Machine Speaks

How to Wreck a Nice Beach: The Vocoder from World War II to Hip-Hop, The Machine Speaks

まったく関係ないが、面白そうだったので大戦中のヴォコーダーの出自とその後のポピュラー音楽への転用をまとめた本を読んでみる。もとになったのはベル研究所のHomer Dudleyが開発したVoderだが、ベル研究所は軍部とつながりがあったらしく、最近読んでいる文献では名前をよく目にする(Voderは電線の数を減らすという経済的な理由のために1930年代に開発されたが、後に音声をコード化して通信傍受を妨害する装置に転用された)。Vocoderとは関係ないが、第二次大戦中にはキャタピラや工事の音をステレオ再生することで敵の耳をあざむき、誰もいないところに部隊がいると勘違いさせるための部隊(Ghost Army)の設立にもかかわっていたようだ。エディソン周辺の資料(アコースティック録音関係のもの)は集めてきたが、1920年代以降の電気的な音メディアについて考えるにはベル研究所は無視できないし、両者の発展と衰退の背後(通信とオーディオ再生のシステムを統括したことがエディソンとベルの違いだろう)に軍事産業がかかわっていたこともおさえておく必要がありそうだ。レコード史や音楽産業史においてはベル研究所は控えめに取り上げられることが多いが、音楽を中心としないならば電話、ラジオ、オーディオ機器など複数のメディアの関係を考えるうえで面白い場所なのかもしれない。

■音響兵器の両義性
上記のCloonanとJohnsonあるいはSteve Goodmanは(音楽を含む)音の過剰さによって不快を引き起こす、麻痺させるといったメディアの作用を取り上げているが、同じように音によって快を引き起こす、麻痺させるということにも音が使われていることにはあまり触れていない。両者が同じ基盤のうえで作動することを考えておかないと、音響兵器もただの「誤った」使用法ということになってしまいかねないのでこちらも文献を読んでみる。

Elevator Music: A Surreal History of Muzak, Easy-Listening, and Other Moodsong

Elevator Music: A Surreal History of Muzak, Easy-Listening, and Other Moodsong

Music as Medicine: The History of Music Therapy Since Antiquity

Music as Medicine: The History of Music Therapy Since Antiquity

上のElevator Musicはバックグラウンドミュージック研究の基本書で、軍事、労働、医学、映画など様々な領域を横断してバックグラウンドミュージックについて論じている。バックグラウンドミュージックはそれ自体は意識されないための音楽であるせいか、あまり研究の対象として取り上げられることもないが、聴かれてはいないが聞こえてはいて、何か前景になるものへの態度を変えるように働きかけている。
たとえば、1930年代には産業心理学という分野で労働効率をあげるために音楽が研究され、ミューザックにも応用されていたようだ。音楽そのものへの注意を逸らしつつ、手元への集中を持続させるために音楽は使われていたようだ。図書館に一次資料があったので、借りておく。これは疲労や倦怠と注意の関係についての心理学的な研究だが、医療では音の生理学的な作用を利用して外科の麻酔に応用していたようだ。これは1920年代の雑誌Talking Machine Worldでいくつか記事を見つけたが、文献もないか探してみる。

追加

音響兵器あるいは拷問と音楽メディアの関係については、Suzanne G. Cusickがウェブ上で発表した論文”Music as Torture/ Music as Weapon”が先駆のようだ。Sonic Warfareでも参照されていた。
娯楽産業と軍事産業が実は同じ基盤の上に成り立ち、快楽と恐怖を配分しながら、国家の内と外に力を行使しているというのが要点。アメリカ軍の兵士は自分たちが持っている音楽データの中でどれが一番効果的かをいろいろ試しており、クリスティーナ・アギレラエミネムが使われたらしい。

ヴィリリオもチェック

War and Cinema: The Logistics of Perception

War and Cinema: The Logistics of Perception

音の戦争

気を抜いていたらあっと言う間に冬になった。暖房のダクトからものすごい寒風が入ってくるので、暖房たかないとほとんど屋外みたいな寒さだが、このダクトさえなければ、暖房つけなくても過ごせるような気がする。

ここ最近のゼミは院生の発表だった。音楽学部の中でも技術に関心のある院生が集まっている研究室なので、わりと内容を理解することができた。とりあげる対象は自動ピアノ、フォーク・フェスティバル、オペラ、ロック・ギタリスト、ポスト・ロックと様々だが、方法は音楽学らしく、技術が音楽をどう変えたのかということを細かな分析で示していくという発表がほとんどだったと思う。最近わかってきたが、ここの学生はわりと社会学やカルチュラル・スタディーズに反発しているらしく、コンテクストばかり議論していたら音楽の差異が軽視されてしまうというようなことをよく話している。たしかにそうだと思うが、その方面の本をまったく読まないことや、自分の方法に疑念を抱かないのはどうかとも思う。ただ内容はともかく、みんなプレゼンがうまく、パワポもだいぶこなれているし、笑いをとるのも忘れない。先生のコメントもほとんどプレゼンの仕方にかんするものだったし、発表ゼミとはほとんど見せ方を勉強するためのものらしい。

Sonic Warfare: Sound, Affect, and the Ecology of Fear (Technologies of Lived Abstraction)

Sonic Warfare: Sound, Affect, and the Ecology of Fear (Technologies of Lived Abstraction)

最近気になっている本。affectに働きかけ、群集をコントロールする装置としてメディアを切り出し、軍事とエンターテイメントを横断する「恐怖のエコロジー」とその流用について議論している。34章もあるが、各章は4、5ページとかなり短く、コンセプトをさらっと説明しつつ、たくさん事例(音響兵器や音楽を使った拷問からレゲエのサウンドシステムまでてんこ盛りに出てくる)をあげて論じていく感じだった。affectはBrian Massumiから、ecology of fearはMike Davisから借りており、戦争・メディア・音楽についての考え方はフリードリヒ・キトラーとジャック・アタリを参考にしているようだが、さっと言及している程度だった。affectについて議論する文脈をもうすこし明瞭化してほしかったが、音楽産業のロジックの内部に自閉しがちなポピュラー音楽をその枠外から論じていること、さらに伝統的に音楽から除外されてきた情動をメディアを介して、しかもそれを音楽の政治的な問題系として議論しているのはおもしろかった。

著者はKODE9という名前でダブステップのミュージシャンとしても活躍しているが、内臓も揺れるサウンドシステムの音を浴びつづけてたら、こういう発想にいたるのもうなづける。

ついでに、彼が参照している文献も図書館で集めることにする。

Parables for the Virtual: Movement, Affect, Sensation (Post-Contemporary Interventions)

Parables for the Virtual: Movement, Affect, Sensation (Post-Contemporary Interventions)

Ecology of Fear

Ecology of Fear

そういえば、本の返却が遅れたら罰金をとられた。みんなこまめに本を管理してると思ったら、そういうことだったらしい。

スタジオ論文献

風邪をひいて週末がつぶれる。たぶん、Tシャツに短パンの人たちがいまだに多いせいで、服装の季節感が分からなくなったせいだ。みんな小学生みたいに元気だ。

前回の日記で書誌情報を教えていただいたり、書いたりしたので、忘れないようにメモ。こうやってたまに議論が膨らむと面白いし、ありがたい。ブログが死んでいたのを反省。
■音楽聴取と建築の関係

The Soundscape of Modernity: Architectural Acoustics and the Culture of Listening in America, 1900-1933 (The MIT Press)

The Soundscape of Modernity: Architectural Acoustics and the Culture of Listening in America, 1900-1933 (The MIT Press)

■録音作品の存在論とスタジオ(前者はネルソン・グッドマン、リディア・ゲーアの分析哲学、後者のグラシックはベンヤミンの複製技術論文をもとに議論している。)

Musical Works and Performances: A Philosophical Exploration

Musical Works and Performances: A Philosophical Exploration

Recorded Music: Philosophical and Critical Reflections (Music & Performing Arts)

Recorded Music: Philosophical and Critical Reflections (Music & Performing Arts)

文献を見直したら、トインビーもポピュラー音楽の作者性についての議論でエンジニアを取り上げていた。ニーガスも。

Making Popular Music

Making Popular Music

Producing Pop: Culture and Conflict in the Popular Music Industry

Producing Pop: Culture and Conflict in the Popular Music Industry

それから、id:taninenさんこと谷口文和さんが追加で文献をあげてくださってます。どうもありがとうございます。ちょうどこれから調べてみようと思ってたところなので助かります。

Wired For Sound: Engineering And Technologies In Sonic Cultures (Music /Culture)

Wired For Sound: Engineering And Technologies In Sonic Cultures (Music /Culture)

Susan Schmidt Horning,“From Polka to Punk: Growth of an Independent Recording Studio, 1934-1977”
以下の論集に所収

Music and Technology in the Twentieth Century

Music and Technology in the Twentieth Century

  • 作者: International Committee for the History of Technology,Hans-Joachim Braun,Hungary) Symposium Icohtec 1996 (Budapest
  • 出版社/メーカー: Johns Hopkins Univ Pr
  • 発売日: 2002/07/10
  • メディア: ハードカバー
  • クリック: 4回
  • この商品を含むブログ (3件) を見る

同じくHorningで“Engineering the Performance: Recording Engineers, Tacit Knowledge and the Art of Controlling Sound” in Social Studies of Science 34/5,pp.703-731, 2004.

■聴診器とヘッドフォン(スターンの聴診器論を手がかりにヘッドフォン的な主観性について論じたもの。いくつかの電子音楽作品を取り上げて論じている。)
Charles Stankievech "From Stethoscopes to Headphones: An Acoustic Spatialization of Subjectivity"(http://www.stankievech.net/writing.html に記事あり)

アイデンティティ・ポリティクス

カルチュラル・スタディーズアドルノ解釈がどうも気になっていたのは、両者の議論のずれがカルチュラル・スタディーズあるいは社会学的なポピュラー音楽研究の問題を考えるのに役立つように思われるからだ。

カルチュラル・スタディーズにせよ、社会学にせよ、現在は音楽集団の多様性やその間の価値闘争に着目する研究が(とくに若手研究者の間で)増えているように見える。方法は違えど、その根底にはもともと、一部の人間だけがメディア/音楽をコントロールし、それによって大衆を全体的に操作していると主張し、自分だけはそうした社会構造の外部に立っているかのように振る舞いながら、外部への突破口としてモダニズム音楽を持ち出す(と考えられている)アドルノに対する対抗の意図があったと思う。