このアパートに住みはじめてからパソコンの調子がおかしくなった。それもそのはずでプロバイダのセキュリティが甘いらしく、パソコンをウイルススキャンしたら菌まみれだった。ブラウザがクラッシュしまくりでブログ書くどころではなかったが、マカフィーし…

サウンド・スタディーズ

■つくえ 隣の家族が真夜中に引っ越していき、棚やらなんやらを捨てていったので拾っておく。わりといい机と椅子も手に入ったのでようやく段ボール机から解放された。最近は真ん中がへこんできてまともに使えず、腰にもダメージがでていたので救われた。この…

音響兵器が気になったので、引き続き論文を探す。音楽と戦争というテーマではたくさん書かれているが、音楽が扇動に使われているというのは分かるとしても、ではなぜ音楽なのかということは問われないし、メディアが単に規模の問題としてしか議論されていな…

追加

音響兵器あるいは拷問と音楽メディアの関係については、Suzanne G. Cusickがウェブ上で発表した論文”Music as Torture/ Music as Weapon”が先駆のようだ。Sonic Warfareでも参照されていた。 娯楽産業と軍事産業が実は同じ基盤の上に成り立ち、快楽と恐怖を…

音の戦争

気を抜いていたらあっと言う間に冬になった。暖房のダクトからものすごい寒風が入ってくるので、暖房たかないとほとんど屋外みたいな寒さだが、このダクトさえなければ、暖房つけなくても過ごせるような気がする。ここ最近のゼミは院生の発表だった。音楽学…

スタジオ論文献

風邪をひいて週末がつぶれる。たぶん、Tシャツに短パンの人たちがいまだに多いせいで、服装の季節感が分からなくなったせいだ。みんな小学生みたいに元気だ。前回の日記で書誌情報を教えていただいたり、書いたりしたので、忘れないようにメモ。こうやってた…

アイデンティティ・ポリティクス

カルチュラル・スタディーズのアドルノ解釈がどうも気になっていたのは、両者の議論のずれがカルチュラル・スタディーズあるいは社会学的なポピュラー音楽研究の問題を考えるのに役立つように思われるからだ。カルチュラル・スタディーズにせよ、社会学にせ…

スタジオ来訪

今週はまた別の録音スタジオに見学に行った。まだ建設中だったが、普通の四角形のスタジオとは違い、六角形の建築物で、床から壁から天井から三角形のユニットを組み合わせて作っているようだった。フラクタルがどうのこうのと言っていてよく聞き取れなかっ…

タイムスリップ

サマー・タイムが終わったことに気づかず、授業に行ったら誰もいなかった。僕だけ一時間ずれた時間を生きていたらしい。ショッキング。Roll over Adorno: Critical Theory, Popular Culture, Audiovisual Media (Suny Series in Postmodern Culture)作者: Ro…

備忘録

週末は食料の買出しに行く。近くに店がないので、リュックを背負い、自転車で1時間。これをやらないと飯が食えないが、買出しの後は半分死んだような状態になる。体力だけはつきそうだ。昨日は若者たちに代わりにビールを買ってくれとせがまれる(IDを見せ…

アメリカン・ジョーク?

ゼミの間でたまに飛び交うアドルノについてのジョークが気になる。何を言っているのか、何が面白いんだかよく分からないが、あまりいい笑いではないことは分かる。ちょっと気になったので後でアドルノってどういう扱いなのか聞いてみたら、この国では絶対的…

ライブ/録音 つづき

明日からみんなアメリカ音楽学会に行くらしい。行きたいけど、だいぶ遠いのでお留守番。昨日書いたとおり、日本のライブ事情についてぐだぐだになりながら説明する。ひとまず、カイルは日本の録音受容についてエスノグラフィを提供しているけれど、なんだか…

ライブ/録音

今日は授業にDJが忽然と現われて、スクラッチを実演してくれた。みんな興味深々で質問しまくっていた。ゼミもそうだけど、みんな考える前にとにかく喋る。がっちりした音楽学をやっている学生もいるし、メディア・スタディーズをやっている学生もいるけど、…

グールドの幽霊

気づいたら1年以上書いてなかった。このままだと消えてしまうので、ひさびさに復活。先月からノースカロライナ大学の音楽学部に来ています。生徒の半数くらいが大学のTシャツやパーカーを着ていて、その愛校心ぶりがちょっと鼻につく。先週土曜日はゼミ(テ…

□読書会 次回の読書会の文献 Henry Jenkins, Convergence Culture: Where Old and New Media Collide Convergence Culture: Where Old and New Media Collide作者: Henry Jenkins出版社/メーカー: NYU Press発売日: 2006/12/24メディア: ペーパーバック クリ…

聞こえない音楽

博論の予備審査が終わる。途中段階のものを聞いていただくのは気がひけたが、議論が断片化しがちなので、全体の構想を聞いてもらえたというのは非常に良い機会になった。制度としてどうかは別として、聞いていただいた方々には感謝しなければ。学会発表より…

音楽と薬

■音楽と薬だいぶ前に書いた音楽と医学の関係について考える素材として、「クスリ」音楽についての資料を集める。医学的な治療薬としての音楽と非合法薬物としての音楽と、薬物と音楽の関係といろいろ探してみる。最近では茂木健一郎が音楽について書いていた…

聴衆の生産

Victor Talking Machine Companyが出版していた本を集める。The Victrola Book of the Opera: Stories of the Operas作者: Samuel Holland-Rous出版社/メーカー: Wildside Press発売日: 2009/01/01メディア: ペーパーバック クリック: 1回この商品を含むブロ…

1900年代から1920年代アメリカのレコード産業でのオペラ歌手の受容を調べはじめる。William Kenneyによれば、この時期にオペラが受容されたことは、蓄音機が家庭内のメディアとして流通しはじめたことと関連している。初期のフォノグラフ・ショーやパーラー…

声のトポグラフィ(2)

論文を直しているうちに、いつの間にか春になっていた。桜も散っていた。とりあえず、ひと段落ついたので、次にとりかかることにする。声のきめの続きだいぶ前に書いた精神分析的な議論では、声は身体に還元されず、内部に隠された欲望の対象を現前させるも…

古文書ツアー

古文書ツアーに行ってきた。考古学的な調査方法、ローカルな政治経済と研究機関の関係、銀山観光のマネキン(あきらかに白人の顔をした代官の人形)などなど、いろいろと考えることのある旅だったが、過酷なスケジュールをとりあえず耐え抜いた。ふだん依拠…

声のトポグラフィ(1)

(1)欲望の対象a=声のトポグラフィ 「音楽、声、言語」でのバルトは「声のきめ」を明確に対象aとして規定している。以前は「声のきめ」は声の物質性、声の身体として議論されていたが、ここでは意味作用から欠如したものとして議論されており、身体の物質…

みっくみく 2

明日から銀山で合宿。銀ではなく古文書を掘り出す魅惑のツアー。■声のトポグラフィ 声の身体についてメモ続き。「声のきめ」という声の物質性、意味作用に還元されない歌う身体の悦楽は、物理的な因果関係という意味での物質性に還元できるのだろうか。声と…

研究会のお知らせ

来週の日曜日3月8日午後2時より、視聴覚文化研究会/芸術学研究会の研究発表会を開催いたします。今回のテーマは「カント感性論の現在形」です。これまでの研究発表会では、メディア(メディア間)あるいは視覚文化・聴覚文化・視聴覚文化のように諸感覚…

みっくみく

時間が経ってしまったので先の日記の続きをうまく書けなくなってしまった。1960年代に出てきたミューザック方式の疲労曲線BGMとかヒーリング音楽と、サイケデリック・カルチャーやレゲエのドラッグ的な音楽の表裏の関係がうまく考えられるかと思ったりしたの…

病理としての音楽聴取

■メモ 映画研究の人にヒステリーと映画の関係について話を聞いているうちにハンスリックが『音楽美学』で議論していた音楽の病理についてふと思い浮かんだ。 ハンスリックは「美的聴取」と対立させて、精神的な契機を欠き、音楽と感情が直接的に連動してしま…

■幽霊の声 声の主体性の裏声としておいおい心霊も重要になるし、おそらく自動人形も関わってくる。文献をチェックしておく。だいぶ前に読もうとしてまだ読んでなかったものHaunted Media: Electronic Presence from Telegraphy to Television (Console-Ing P…

精神分析と声

■音響的鏡 The Acoustic Mirror第一章"Lost Objects and mistaken Subjects: A Prologue"を読む。精神分析的な映画理論からフェミニズム映画批評への導入部となっている。議論の基礎として、シルバーマンは古典的な映画は映像がこうむる対象の不在や欠如に対…

やっぱりデリダ『声と現象』『グラマトロジーについて』も読まないといけない。以前に読んだときの記憶がほとんどない・・・。ドラーがラカン、デリダ、形而上学における声の位置について比較しながら議論しているので参考にしつつ。ドラーは現前の自明性を…

引き続き声文献

前回の補完。ドーンは映画における声の位置(もっとも特権化された映画の音)は精神分析的な意味での「幻想的身体の統一性」を基礎付けるものとして議論されていたことは先日紹介したが、論文の後半部では声がもつ象徴界的な要素にも注意を向けていた。たと…