学会

とうとう終わりました、学会。当日はリポディタンDとチョコと緊張でお腹が緩くなり、それはもう滝の如く・・・。とまあ、こんなことを書くから下品だと言われるんですが、チョコレートのおかげでタイトル以外はあまりかまずにすみました。緊張すると血圧が下がり、ついでに血糖値も下がるので、チョコレートで糖分を摂取すると、言葉につまらなくて済むそうです。その効果は質疑応答を別としてですが・・・。

質疑応答で突っ込まれたのは以下の点
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その1.
従来の名所と近代=観光的な「名所」はどう違うのか。

その2.
中央と地方の差異だけでなく、地方の中でのローカリティの問題はどうなのか。特に安来節は安来という地方の歌なのに、安来に比べて圧倒的に発展している松江や出雲を取り上げるのはなぜか。松江や出雲に他に民謡がなかったのか。

その3.
ローカリティを表象する装置として保存会を取り上げているが、各地で「正調民謡保存会」が発生したということは、差異化だけでなく、同一化の作用もあるのではないのか。

その4.
「正調」と「古調」の間の差異はどうなっているのか。なんで「新調」ではないのか。
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ざっとこんな感じだったと記憶しております。その3と4は以前の発表などでまとめていたにも拘わらず、学会に住む魔物の悪戯なのか頭は回らず、しどろもどろに意味不明なことを説明してしまいました。死にたい。
その2に関して、松江にも民謡が存在したが、芸妓などの歌によって卑俗な歌が増えていったと非難され、消滅してしまったこと、もともと松江の城下町であった安来が遊覧地として適当な松江の名前を借りた、あるいは松江が卑俗でなく純粋とされる安来節の名前を借りたこと、などが作用してそうした状況を作ったのではないかと思われる。地方の中の中央と周縁という関係ももう少し考えなければならない。
その1に関しては目下検討中。旅枕など、テクスチュアルなものとして作り上げられていった中世の名所、それは柄谷が論じるように想像される場所であって、訪れる場所ではなかった(らしい)。明治にいたり視覚的「風景」として発見されたにも拘わらず、それでもなお「名所」という言葉を借りているものとは何なのか(何なのでしょう)。柄谷は文学において「風景」の発見を論じ、それを「私」の発見と重ねたが、佐藤先生のおっしゃるように、ピクチャレスクという観点から考えていった方が良いかもしれない。いくつか文献を紹介していただいたので、検討してみます。ありがとうございました。

ちなみに「名所」を訳すなら、sightではなく、named spot/sightとなるのではないかということだった。どのように場所を名付け、どのように場所に意味を差し込んだものが観光的な意味での「名所」となるのか、しばらく考えてみたい。