話す機械

昨日は京都大学で開かれた「イメージ(論)の氾濫を前にいかに思考するか」に行ってきた。あの中で発表することを考えると肝を冷やしたが、がんばらねばなるまい。

Instruments and the Imagination

Instruments and the Imagination

"Vox Mechanica:The History of Speaking Machines"

学内の雑誌記事ダウンロードシステムでScience誌に掲載された1860〜1890年代の聾唖教育・進化論的言語学・複製技術などの記事をダウンロードする。ついでに1990年のOctoberに翻訳が掲載された1930年代のアドルノフォノグラフ論をダウンロードする。"The Curves of Needles ""The Form of the Phonograph Record"の二本。これらの論文は渡辺裕さん翻訳のアドルノ・メディア論集にも掲載されている。なぜOctoberで掲載されたのか、同時期にフォノグラフ論文に関連して掲載された論文もダウンロードしておく。
1930年代、アドルノフォノグラフから聞こえる音を批判的に論じた一方で、フォノグラフ・レコードに刻まれた溝を自然言語として、より精密な楽譜(note)として解読する可能性について論じた。他方、同時期に民族音楽学の側では、フォノグラフに演奏を録音した音から、より精密な採譜が行えるのではないかと吟味しはじめる。結果として、前者の試みは忘れ去られ、後者の試みは現在でも継続されている。しかし、当初の論考の中で音楽学者は、フォノグラフによって何度聞いてみても採譜しきれない音を発見し、楽譜から溢れかえってしまう音に対して、学として音楽を考察する可能性の限界まで追いやられていたのである。なぜ、前者の試みは挫折し、後者の試みは当初の摩擦を覆い隠したまま、継続されたのかを考えてみたい。

これは昨日の岡部さんの「音楽・イメージ・言葉」を聞いて思ったこと。岡部さんは音楽学の方法としてというよりは、音楽を作曲する方法として楽譜からの思考と音からの思考について論じてらしたように思う。僕は民族音楽やポピュラー音楽など、録音技術以降に聞く機会を得た音、録音技術を前提として成立する音を、音楽学がどのように思考するかということを模索してみたい。

だが、まずは美学会の原稿を書くこと。