サウンド

yasuhamu2008-11-05

投稿に向けて論文読みつつ、次の段階を模索する。学部の頃からやりたかった「サウンド」にやっととりかかれそうな気がする。細川周平氏がポピュラー音楽を論じる際に提示した「サウンド」(『レコードの美学』)、庄野進氏が電子メディア時代の音楽を論じる際に提示した「アクースマティックな聴取」(「電子メディア時代の音楽―アクースマティックな聴取をめぐって―」)、それらを歴史的に位置づけつつ批判的に論じる観点を整えたい。

サウンドといえば、近年は音響兵器なるものもある。アメリカがイラクに導入した『LRAD』は増幅した低音で動きを奪うという。戦争での音についてはいろいろ情報が出てくる。とくにナチは音響兵器だけでなく、ヒットラー・マイク(ヒットラーの声に適した特注マイク)、ラウド・スピーカー、テープ・レコーダーなど、戦後の音楽産業へ導入される様々な技術を開発したことで知られる。聴衆を熱狂させるロック・スターとヒットラーサウンドの力で歩を並べている(こういう話はキットラーが好んで引用している)。政治における声については、Phonorama論文集に掲載されているようなので、落ち着いたら読んでみよう。

精神分析
芸術と精神分析も4回目でフロイトの議論に入る。先生が何度も注意されているように、この「芸術と精神分析」という講義は精神分析理論を作品分析と制作のアプリケーションとして使用することが目的なのではなく、芸術〈と〉精神分析のインプリケーションの関係を探ることが目的になっている。精神分析理論の問題は非歴史性にあると指摘されるが、芸術〈と〉精神分析の関係を歴史的に位置づけることで、この問題を越える糸口になるのかもしれない。とりあえず、講義で提示されたテクスト『夢判断』「度忘れのメカニズム」「イェンゼン著『グラディーヴァ』にみられる妄想と夢」を順に読んでいく。

フロイトがローマで書いた手紙に関するクレイリーの分析も読み直してみる(『知覚の宙吊り』のエピローグ)。・・

知覚の宙吊り―注意、スペクタクル、近代文化

知覚の宙吊り―注意、スペクタクル、近代文化