男はつらいよ、どころじゃないよ

■暴飲暴食暴観
今日は京都近美で開かれていた醜と排除の研究発表に行く予定だったのだけど、友人の人生に関わる相談を受け、断念。先輩を電話で起こし、後輩を京都に見送る。歩めば分かるさ、それが人生と顎の大きな国会議員プロレスラーは言ったけれど、歩んでからでは遅いこともやっぱりある。友人に付き合い、ビールをピッチャーで飲んでワインのボトルを空けて、酎ハイ飲んで、梅酒のビンを空けて、寿司を食べて続・死霊のはらわたを見て、死人の恋わずらいを見た。

とまあ、そんなことばかりはしていられないので、Auditory Culture Readerの続きを訳す。

■序文
 序文を半分くらい訳したが、音の文化の見なおし、いや聴きなおしに関するかなり熱い意気込みが語られている。それは我々が世界を知る態度への反省を含んでいた。我々がある出来事を証明し、記録しようとする時、それは大抵、視覚的なイメージとして流布する。
 9.11事件が例示されていた。ビルへの攻撃、倒壊後の廃虚は、ついには観光地のように人びとが写真撮影のために訪れる場所になってしまった。その下にいまだ発見されていない死者がいることは、廃虚に向かって吠えたてる犬の鼻のみが知るところである。飛行機がビルに突っ込んで行く映像からは、揺れ動く空気の振動と鼓膜への衝撃は消え去り、どこかで見たことのある映画のワンショットと化してしまう。視覚は対象に触れることのない、遠い感覚だと筆者は言う。音に焦点を当てることで、身体が接触する場の記述が可能となる。
 
 以前聞いたことがあるが、アメリカで作られた原爆地下実験の映像には、アフレコで爆発音がつけられた。地下の爆発音は小さいため、その破壊力を伝えることができなかったためだ。匂いや痛覚のない映像ならばなおさらだろう。体験のリアルさは耳の操作によって容易に変容してしまう。目だけではだめ、耳だけでもだめ、ではどのようにその調停をするか、ということは論文を読み進めてからということか。

さて明日は朝からまたガテン系。この前の反省を活かし、早めに寝よう。