議論の後に

■視聴覚文化研究議論
バイトに行っている間に議論の時間が終わってしまった。応答がなかったのはすごく寂しいけれど、自分たちがやっていることを見直す良い機会になったと思う。ひょっと気付いたが僕の研究は聴覚文化研究ではない。聴覚文化と視覚文化をそれぞれ単層的に切り取るだけではなく、それらを交通させるための議論を続けていきたい。今までの聴覚文化研究は、聴覚文化に愛があるようでいて、単に視覚中心主義の批判によって聴覚文化を擁護しているに過ぎなかった。「オタク」という言葉が否定的に使われていたが、自己愛的で自己防御的な対象の保護をしない研究をするためには、否定的なものではない対象への愛がやっぱり必要だと思う。それがなければ「誘惑」もない。ちょっとずれたけど、聴覚文化とか視覚文化への閉塞的な愛に留まらないで、それぞれを活性化させるには、視聴覚文化研究会は自分の立ち位置を確認する良い場だし、もっと活性化させる余地はあると思う。続きを必ずやりましょう。おそらくハラハラしながら見ていた人もいるかもしれません。場をかしていただいた先生、どうもありがとうございました。

油断してると、ついた片膝からも刃物が飛び出る。そういう研究会にしたい。

■聾文化としての音の複製技術
最近読んでいるジョナサン・スターンも含め、何人かの論者が音の複製技術を耳の補助ではなく、耳そのもの、耳に代わるものとして論じている(細川周平キットラー)。それは音の複製技術が考案される現場は常に聾と関わっていたという事実にも起因している。例えばベルのフォノトグラフは、人の話し言葉と自分の話し言葉の痕跡の視覚像が同一になるまで練習するためのいわば聾唖矯正器として考案された。それらは聾の人の代わりに音を聴く耳そのものだったのである。しかし、それを耳の代わりと単純に言い切ることには語弊があるのではないかと思う。録音以前の聴覚装置の技術的な原理は鼓膜の模倣にあるが、それが確かに聴かれたということを確認する手段は眼か手あるいはエディソンならば歯にゆだねられている。・・・・・

何か大事なことに気付いたはずだったが、混乱してきた。キットラー読み直します。