クレーリー、ジェイ、ガニング

■クレーリー、ジェイ、ガニング、三者の議論のまとめ
 せっかくなので、議論のまとめを。議論の契機となるアンケートは先日の日記に掲載してありますので、参照してください。ジョナサン・クレーリーは神戸大学の増田展大(id:nobu0125)くんが、マーティン・ジェイは同志社大学の林田新(id:Arata)さんが、トム・ガニングは神戸大学の大村憲右くんがやってくださいました。みなさんお疲れ様でした。ありがとうございました。僕はというと、せっかく訳したアンケートを学校に忘れていきました。討論する気合いだけで行ったので、ペンも何もかも忘れ、徒手空拳でがんばりました。

 三者の議論をまとめると視覚文化研究に見出された長所と短所は次のようなものだった。長所は以下の2点が挙げられていた。

1.視覚文化研究は、ある対象をテクストとして考察するにあたり、文化という広がりを持たせることで、複数のテクストやコンテクストから複合的に考察することができる(ガニング、懐疑的ながらもジェイ)。

2.この複合性には、学問領域間の複合性も含まれる。ガニングの主張によれば、映画研究は映画史を自律したメディアの枠組みの中で行われてきたが、ジェンダー・人種・歴史といったコンテクストを扱う諸学問との接合によって、学問間の隔絶を埋めることが必要である。

 しかし、これらの議論の有効性に対して、問題点もいくつか提出されている。

1.問題は視覚という感覚の切り取り方にある。視覚を分離化・抽象化・特殊化して考察するということ自体が、主体性構築を目的として近代に行われた一連のプロジェクトに対する反省を欠いている。また「視覚」の歴史を「表象物」の歴史と同一視してしまう傾向があるが、それらは相互に関係しながらも異なった歴史として考えなければならない(クレーリー)。さらに、視覚を特権化してしまう視覚文化のあり方は、感覚の相互関係を考察することを妨げるかもしれない(ガニング)。

2.視覚文化研究は、メディアの特殊性を容易に忘却し、イメージをモノとして存在するメディアから非実体化し、メディアによって異なるイメージのあり方を平板化してしまう傾向にある。こうした態度は、メディア・リテラシーを軽視し、テクストの読みを不十分なものにしてしまう(ジェイ)。

3.こうした傾向は歴史性の欠如にも起因している。あるメディアの歴史を無視してしまうために、リテラシーも欠如する。結果として、視覚文化研究が出す結論は超歴史的なものになり、以前の構造主義のように普遍性を提示する(ジェイ)。

→これらの問題意識は、先日僕がまとめた聴覚文化研究の傾向にも言えること。聴覚文化研究の流れをまとめ直す良い材料になった。「視覚」についての議論はもっとしたかった。
 オムレツ大会のまとめについては、id:shirimeさんもブログに挙げておられます。