伏し目と喧嘩

Martin Jay, Downast Eyes

Downcast Eyes: The Denigration of Vision in Twentieth-Century French Thought (Centennial Book)

Downcast Eyes: The Denigration of Vision in Twentieth-Century French Thought (Centennial Book)

デカルトの視覚中心主義的な哲学理論から、19世紀後期以降のフランス思想における視覚の凋落を追う著作。ヨーロッパの思想は視覚を中心に形成されてきたと言われ、それを音を論じる側でも受け入れてきたが、思想の側から視覚に対してどのような摩擦が表明され、またどのように批判がなされてきたのかを押さえることで、音や聴覚に関する思想を議論する手がかりになるかもしれない(実際、音をメタファーとして論じるものは少なくないように思う)。読書会の一回目は序文。次回は眼差しの帝国からスペクタクル、フーコードゥボールを担当。

まったく関係ないが、最近読み直した柳田の文章にも「伏し目」のことが書かれていた。村の共同体において、相手の目を見ることは反抗的な動作であり、喧嘩につながるため、みな「伏し目」がちに歩いていた。それに対して、大正期の東京では人々の「目つき」が変わったことを指摘している。柳田によれば、大正期になり東京出身者の人口が半数を下回ると、路上の視線コミュニケーションは徐々に変わり、むしろすれ違う人がどのような人なのかじっと見つめる視線が増加したという。柳田だけでなく、「目つき」が怖くなった論というのは結構あったようだ(たしか柳田はハリウッド帰りの日本人俳優の言葉をひいていた)。路上の視線については、武田信明さんが『つくられた自然』で書いてたし、佐藤さんも反風景としての採集実践として書いてらした。読み直すこと。