聞こえる読書会

Jonathan Sterne, The Audible Past読書会

The Audible Past: Cultural Origins of Sound Reproduction

The Audible Past: Cultural Origins of Sound Reproduction

序文の続き。僕のレジュメが悪く、また序文が終わらなかった。段取りがつかめたので、次はばしっとやります。今回の部分の重要な点は、文化−自然、視覚ー聴覚という2つの二項対立を解消し、交差させること。ジェイの序文と少し重なって面白かった。以下まとめ

 聴覚に関わる様々なタームが文化的に構築されたものである限り、聴覚をその自然状態において<単に描写する>ことは不可能である。また、音が可聴閾に属す振動の一部に過ぎないのなら、聞くという過程を除外して、音を想像することはできない。音と聴覚の記述は、諸々の外部−記録・記憶・痕跡・人工物−によって間接的かつ外在的に行うしかないのである。つまり、人びとの内的体験、主観的な体験としての「聴覚の過去(auditory past)」を明らかにすることはできない。外部を通じて「聞こえうる過去(audible past)」、つまり過去の聴覚の一部の様相を探る他ないのである。
 にもかかわらず、聴覚や音を歴史と文化を超えた普遍的なものとして論じるという傾向は、視覚と聴覚の対立によって声に特別な地位を与えるキリスト教神学の伝統に由来すると思われる。そうした神学に影響を受けたものとして、声には魂があり、文字は死んでいる、あるいは文字の専制によって神が沈黙するといった議論(ウォルター・オングなど)を挙げることができるだろう。諸感覚の歴史は、感覚の間にあるのみならず、それぞれの感覚に内在しているのである。
 また、この視覚と聴覚の対立の最も大きな問題は、聴覚(hearing)と聴取(listening)を混同している点にある。それらの対立は、社会的な事実としての聴取の一部を持ち出して、それを聴覚全体の特徴であるかのように混同してしまう。例えば、視覚は合理的で、聴覚は情動的といった対立は、音によって精確な距離を測る聴取のあり方を忘却し、他の特殊な聴取をもって聴覚を代理表象しているに過ぎないのである。聴取は聴覚を必要とするが、同一のものではないことを意識しなければならない。

 神学と視聴覚の対立の関係は、オング等のメディア論だけでなく、デリダも引かれていた。「私は神学にひきづられてはいない」とか言って、思想史を論じることを拒否していたが、実はそこが結構知りたいところではある。思想史と聴覚あるいは音について書かれたものを探してみよう。