帝国のまなざしからスペクタクル

マーティン・ジェイ『伏し目』合宿と『可聴過去』読書会の準備

■伏し目
フーコーの『言葉と物』から『監獄の誕生』、ドゥボールの『スペクタクルの社会』までを担当。監視の議論についてはなんとなく分かるが、『言葉と物』についての議論が難しい。言葉とイメージが分離していなかった前古典主義時代(ルネサンス?)には、類似が世界を認識する主な方法だった。このとき見ることと読むことは同等の行為であり、世界はひとつの書物として見られ=読まれ、物と物の関係は円環的な連鎖を形作っていた。しかし言葉とイメージが分離し、言葉とイメージが自律した諸関係を形成していく古典主義時代に至ると、類似ではなく比較(相違性と同一性)が世界を秩序化する主要な方法になる。分類学的な差異を可視化する表が知の指標になり、類似によって世界を認識するものは狂者として暗がりに追いやられてしまう(セルバンテスの『ドン・キホーテ』が古典主義時代とルネサンスとの境界に位置する)。・・・・・『言葉と物』の前半部と『ラス・メニナス』、視覚中心主義がどうつながるのか、頭がショート中。

『ラス・メニナス』については加藤哲弘さんの解説が分かりやすいとの話を聞いたので本を借りる。

「まなざし」についてもおさえる。
視覚論 (平凡社ライブラリー)

視覚論 (平凡社ライブラリー)


■可聴過去
音の複製技術の定義についての議論
「音源から音を分離する技術」「音源の視覚的情報を与えずに音を聞かせる技術」という定義に対するスターンの反論が今回の肝になる。「音源の見えない音」という複製技術の定義には、例えばピエール・シェフェールの「アクースマティック(acousmatic)」、サウンドスケープの「音分裂症(schizophonia)」などがある。スターンは、こうした定義が前提としているものを四つ挙げている。