過去の過去

引っ越し作業がようやく終わり、最終的にコピー室をなんとかした院生研究室に移る。目の前にうずたかく積まれていた段ボールをやっつけ、ネットも繋がるようになった。

ということで、他のことにかまけてまとめを放棄していた読書会の記憶を掘り起こしてみる。

■可聴過去

音の複製技術の定義についての議論

「音源から音を分離する技術」「音源の視覚的情報を与えずに音を聞かせる技術」という定義に対するスターンの反論が今回の肝になる。「音源の見えない音」という複製技術の定義には、例えばピエール・シェフェールの「アクースマティック(acousmatic)」、サウンドスケープの「音分裂症(schizophonia)」などがある。スターンは、こうした定義が前提としているものを四つ挙げている。

1対面的なコミュニケーションがあらゆる伝達行為を測定するための基準であるという前提。録音複製技術は従って、そうしたコミュニケーションに対して消極的に定義される。

2録音複製技術は、身体の諸感覚の関係を混乱した影響を及ぼすという前提。こうした前提は、複製技術以前の身体の諸感覚の関係を歴史の外部に置いてしまう。例えば、声と身体は複製技術以前には全体的で、同一で、自己現前的であったと、そうした定義は前提する。

3録音複製技術が発明される以前、身体は全体的であり、損なわれていなかったという前提。こうした前提は、あらゆる近代的生活は混乱しており、全体的な主体あるいはそれ自体と親密な主体こそが技術によって媒介されず、断片化されない主体であるということと同義である。

4音分裂症的な定義は、音の複製技術は中立的な経路、つまり社会的諸関係の本質的な部分ではなく手段的な部分として機能しうると想定し、また音の複製技術は技術との親縁性に先行するか外側に存在する「音源」から存在論的に分離していると想定する。

 こうした前提は、複製技術以前を以後に対して理想化し、その欠如として以後を論じる傾向にある。そうした消極的な定義に対して、スターンは<変換機(transducer)>(音を何か別のものに変換し、その何かを音に戻す装置)として音響複製技術を定義する。例えば、フォノグラフは音をシリンダーの溝に変換し、再び音に変換する。ラジオは音を電波に変換し、再び音に変換する。
 
 この定義は非常に単純だが、しかし、それ自体が歴史的に構成された技術であり、音と聴覚についての理解の変化の産物である。それは生理学、医学、物理学等の諸科学において、振動として音が発見され、振動を音の知覚に変換する鼓膜が発見される過程から生じた。それら文化的・社会的な諸過程から音響複製技術を見直すことから本論は開始される。


○目次
1章 彼らの代わりに聞く機械(Machines to Hear for Them)

2章 聴取の技法(Techniques of Listening)

3章 聴取の技法とメディア(Audible Technique and Media)

4章 可塑的な聴覚性−メディアになる技術(Plastic Aurality:Technologies into Media)

5章 音響的忠実性の社会的起源(The Social Genesis of Sound Fidelity)

6章 鳴り響く墓標(A Resonant Tomb)

一章が音響複製技術と鼓膜機能の模倣についての議論。個人的には5章と6章に関心がある。5章はオリジナルな音のコピーとして再生音を前提する考え方が、どのように発生したのかについて、ハイ・ファイ言説をもとに議論している。6章は録音をエンバーミングや缶詰といった19世紀の技術と関連づけ、録音に取り憑いた死について議論する。録音によって死から逃れようとすること、録音によって死へと追いやること、幽霊として声が蘇ること、そういう話ではないかと期待。

明日は一章の読書会