声の<きめ>

□第2ビル研究会
The Audible Pastの第一章続き。次回で一章は終了予定。

今回はフォノトグラフに耳が取り付けられることになった経緯を理解するために、生理学・音響学・耳医学といった諸科学における音の理解と聴覚の理解を抑えていく部分だった。
スターンは音に関する理解が、音源に関する考察から、音源から独立した「効果(effect)」へと変容していく過程を論じていく。ただ、僕はそれぞれの分野の論点を同じ「効果(effect)」という語でまとめてしまうことが少し引っかかった。

ミュラー

ヘルムホルツ


□「声のきめ」メモ
ロラン・バルト『第三の意味』所収の音楽論を読み直す。その中の「声のきめ」は、バルトが音楽批評の転回を試みた論考である。バルトによれば、音楽はつねに「形容詞という最も貧しい言語カテゴリー」によって翻訳されてきた。そうした述辞を与える行為は、バルトによれば、対象を主体に従属させることである。

「術語とは、つねに、主体の想像物がみずからを脅かす喪失から身を守るとりでなのだ。自分に形容詞を与える、あるいは、人から与えられる人間は、ある時は傷つけられ、ある時は傷つけられ、ある時は恩を施されるが、しかし、つねに、構築されるのだ。音楽には一つの構築物があって、その機能は音楽を聞く主体を安心させ、その主体を構築することである。」(『第三の意味』、沢崎浩平訳、みすず書房1984、p.186)

こうした形容詞的批評の外に出る可能性の考察は留保しつつ、バルトは音楽批評の外の批評の可能性を次のように示唆する。

「音楽の注釈に悪魔祓いを施し、述辞的な宿命から解放するチャンスは、形容詞と戦うことによってつかめるわけではない。音楽に関する言語活動を直接変えようとするよりは、むしろ、言葉に供されるような音楽的対象そのものを変えた方がいい。すなわち、音楽の知覚レベル、あるいは、その悟性作用のレベルを修正すること、音楽と言語活動との接近を転位させることだ。」(バルト、p.187)

バルトは言語が音楽に出会う、その接触面をずらしにかかる。その時にバルトが提示するのが声の<きめ>である。この論文でバルトは歌の声に議論を限定するが、バルトは<きめ>を「歌う声における、書く手における、演奏する肢体における身体」として定義する。従って、声の<きめ>とは音響を形容詞的にテクスチャーとして批評する言語ではなく、喉、舌、歯、唇の震えといった身体の重さと音とが分かちがたい地点を名詞的に批評する言語である。


もう少し考えて、明日に続く







The Audible Past: Cultural Origins of Sound Reproduction

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第三の意味―映像と演劇と音楽と

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