研究会後記

□研究会
いろいろな方に来ていただき、感謝のいたりです。とともに、議論がもっと盛り上がらなかったのは司会として反省した。議論を整理した上でもっと突っ込めたし、会場をあおることもできた気がする。こうやったら良いとか悪いとか、そんな小さくまとまった議論ではなく、激しくやっていきましょう。

デジタル写真についての川本さんの発表は、音のデジタルーアナログを考える上でも参考になった。ただ、疑問はやはり残った。デジタルーアナログの対立(インデックスをめぐる対立)を解消させるために、技術的なレベルでの重なりを確認する作業によってそれを解消しようとする主張はよく分かる。ただ、それは指摘があったように、見ること(モニター上にあるものは写真?)、所有すること(プリントされたもの、データとして保存されたもの)のレベルとは異なる議論だ。僕が特に気になったのは、技術的なレベルでの対立はないと議論した後、はたして対立は無くなるのかということ。「写真は死んだ」の先に蘇ってくる写真のゾンビはカメラ雑誌の中で蠢いているし、なぜデジタル画像は写真としてプリントされるのか。インデックス性がある/なしを議論するよりも、むしろ問いを逆に立て、なぜインデックス性を<写真>に求めるのか、与えるのかということも議論できるのではないかと思った。この問題は音でもやらなければならないところ。


「アトラクションの映画」の発表について、司会をしているうちに勝手に興奮してしまったが、やっぱりガニングの「アトラクションの映画」が有効か否かという議論よりも(確かにガニングが精緻に資料を調査していたかは疑わしい)、それがどのような必要性の中でどのような戦略をもって概念化されたのかを議論した方が面白いように思った。これは発表の後、松谷さんとの議論でも一致した意見だった。おそらくガニングは、支配的な装置論(時代はずれているのだろうか)が提示する窃視的な観客ースクリーンの関係に対し、別の見方を提示するために初期映画を戦略的に利用したのだと思う。それはコプチェクとは違う方法で装置論に応答しつつ、観客の差異を認めることのできる幅を持っているのではないか。その意味で、現代の映画にまで適用するのはまずいと捉えるよりは、現代に適用された「アトラクションの美学」が「ショック」や「驚き」をどのように物語映画において議論できるかを考える方が有効であるように思う。


関係ないが、この議論の後、話がまた盛り上がり、スクリーンのすべてを見ることのできる観客を想定した映画研究(見過ぎな映画論)に有効性はあるのかという話になった。スチル写真を精緻に分析することも必要だが、そうした細部からは見えてこないものを議論するのも必要なのではないかと思う。そろそろ、映画の音にも着手しよう。