DJアドルノ

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

アドルノのレコード論
アドルノ 音楽・メディア論集』とOctober誌の"For the Record:Adorno in the Age of Its Technological Reproducibility"(Thomas Y.Levin)を並行して読む。この論文でレヴィンは、アドルノのレコードとラジオに関する議論を新たに位置づけなおすことを試みている。アドルノの議論はベンヤミンとの対比においてノスタルジックで時代錯誤的な主張として解釈されてきたが、そうした解釈は一面的であるとレヴィンは主張する。というのも、アドルノに対する批判の多くは、複製技術に関する議論と複製された音楽の内容に関する議論とを混同しており、アドルノの複製技術論を十分にくみ上げていないからだという。アドルノにとって複製技術の問題は、イデオロギー的な鏡像となって働く、その「明瞭性」にある。

「なぜ聴き手がレコードというものの存在をよしとするかといえば、ひとえに、そこで自分という人間をありのままにとっておけるかもしれないと考えるからである。レコード盤とは常に、それを所有する者を映す仮想写真である。それも実際よりきれいに撮れた写真−−つまりはイデオロギーである。」(「レコード針の溝」)

1920年代から30年代の複製技術論においては、消費者と再生される音楽との鏡像的な関係が焦点だった。レヴィンがまとめているように、アドルノは「レコード針の溝」「レコードのフォルム」といった論文で複製技術のモノ性を繰り返し記述し、そうした透明性から聴き手を置きずらそうと試みていた。後の『啓蒙の弁証法』では、そうした可能性を一切あきらめているように見えるが、およそ30年代までは雑誌での執筆やラジオDJ(想像がつかない!)といった実践を通して、生産的な批判を行っていたようだ。
こうした議論を読むと、確かに現在のポピュラー文化研究でのアドルノ批判は一面的であるようにも思われる。それは『啓蒙の弁証法』でのアドルノに対し、ネガ/ポジの関係にあるだけで、アドルノが批判しようとした鏡像としてのレコードを前提にしているからだ。

アドルノのレコード論はかなり参考になるのだけど、どう活かすかは考えどころ。