映画の音

気づいたら二ヶ月たっていた。いろんなことがあったなあ…。ということで、いろいろとたまった論文を読んでいくことにします。i-podについてはウォークマンの議論との距離を考えないとだめなので、もっと時間がかかりそうです…。

技術と聴覚性に関する研究と平行して、そろそろ映画と音についても文献を読んでいくことにした。1920年代までの音響複製技術について研究するには、映画との関係を無視することができないため。フォノグラフとキネトスコープ、バイノーラル録音とトーキー映画、映像と音の技術はつねに平行して展開している。

Rick Altman編のSound Theory, Sound Practiceの中の論文James Lastraの"Reading, Writing, and Representing Sound"を読みすすめることにした。

Sound Theory Sound Practice (AFI Film Readers)

Sound Theory Sound Practice (AFI Film Readers)

ラストラは音の技術的複製に対するふたつの対立的な立場を参照することから議論をはじめる。そのいっぽうは、「オリジナルとコピーに存在論的な違いはない」とする立場(Stanley Cavell, J.L.Baudry, Gerald Mast, Christian Metz, etc)をとり、他方は「再生音はオリジナルに対して部分的な対応関係をもつにすぎない」とする立場(Rick Altman, Thomas Levin, Alan Williams)をとる。こうしたオリジナル/コピーの関係にかかわる対立的な議論が、録音や映画の音の研究の根本的な問題だとラストラは述べる。

しかし、ラストラによれば、ふたつの立場は実は対立するものではなく、ある一定の了解を共有している。原音と再生音とを一致させている前者と、十全な原音の「変形」「部分」「喪失」として再生音をとらえる後者は対立するように見えて、実はオリジナルの実在を素朴に想定している。こうした問題から、ラストラは「オリジナルなもの」という想定そのものをイデオロギー的なものとして問題化する。

「録音にかかわる主要なイデオロギー効果は、その表象が「オリジナル」に依存しているという「効果」を作り出すことにある。」(p.70)

ラストラによれば、この効果こそがイメージの否認という映画装置の作用を音の側面で支えていたものなのである(オリジナルに関する両者の規定は実は異なっているが省略しておく)。こうした前提のもと、ラストラは映画の音にオリジナルの効果を与える技術的な諸要素について論じることになる。とりわけ、それは映像と音の空間的な一致にかかわっているという(遠くの人物の声は遠くから、右から話す人物の声は右から聞こえるという我々が自明視している状況)。とくに興味深かったのは、1930年の技術者の記事の引用だった。音の知覚を完全に再現しようと試みた技術者は、反対に極度の不自然さを感じたという。イリュージョンの効果を生むには、原音に忠実な音よりもイメージに忠実になるように音を統御することが重要だったのである。こうした映画的な音響装置によって、先のオリジナリティの効果は生じたのだとラストラは主張する。

1930年代以降の映画の録音に関して、Sound Theoryの論者たちはThe Journal of the Society of Motion Picture Engineersという雑誌を参照しているようだった。いくつか記事を取り寄せてみよう。

ちなみにラストラの著作はこれ

Sound Technology and the American Cinema: Perception, Representation, Modernity (Film and Culture Series)

Sound Technology and the American Cinema: Perception, Representation, Modernity (Film and Culture Series)