対象としての声

聴衆論とパーソナル・ステレオ論で講義させてもらった。学生にだからどうしたみたいな感想を言われ、ちょっとへこむ。日記も更新せいと言われたので、がんばる宣言。
■レコードとエンバーミング
二年ほど開いてきたジョナサン・スターンのThe Audible Pastも結論を残して、やっと最後の章"The Resonant Tomb"まで進む。この章では19世紀末の録音技術をとりまいていた声の永続性の言説を扱っている。エディソンをはじめとして、蓄音機の発明は死者の声をよみがえらせ、あるいは遠い未来へ向けて声を残すことを可能にするといったマニフェストは多く残されている。しかし、声の永続化という言説とは対照的に、そもそも実際の受容者は長期にわたる保存はそれほど求められておらず、さらには販売用のシリンダーそのものもまた非常にもろく作られていたのである(買いかえてもらうため)。スターンによれば、このときにはまだ死者の声はレコードにとりついてはいなかったのである。そのため、スターンは技術そのものの特性から永続化への欲望を論じるのではなく、むしろより広い言説の布置に蓄音機を置き、ヴィクトリア朝時代に死の概念そのものに生じた変化、さらには産業資本主義にともなう時間概念の変化において議論していく。具体的には、缶詰やエンバーミングなど南北戦争を境に発展した保存技術との関係から考察されることになる。スターンによれば、エンバーミングも録音技術もともに、死者の内面性ではなく外面性(前者においては魂の容器としての肉体ではなく外見、後者は言葉ではなく物理的な声)を保存するものとして共通の位置を占めていたのである。というところまでが前回のだいたいの内容。

心霊写真や遺体写真との比較が興味深かったのが、それはまた。

The Audible Past: Cultural Origins of Sound Reproduction

The Audible Past: Cultural Origins of Sound Reproduction

■声
声に焦点をしぼって考えてみることにした(音は広すぎた)。非文字メディアにおける声の位置(オングが言うところの「第二の声の文化」)を考えれば、おそらく歌声に関連して楽譜以後のサウンドの問題にも触れられるだろう。しばらくはマイクとラジオが焦点になるだろう。良い論文を知っている方、情報大募集中です。

今はラカン派のムラデン・ドラーの「対象としての声」を読んでいる。ソシュールによって音素へと還元された声の剰余をラカンの欲望の対象aとして回帰させ、議論している論文。ソシュール言語学から出発し、バルトの声の肌理などとも差別化しながら議論している。ジジェクと仲良しらしく、映画についてもいくつか書いている。

A Voice and Nothing More (Short Circuits)

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Vocal Tracks

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