精神分析と声

■音響的鏡
The Acoustic Mirror第一章"Lost Objects and mistaken Subjects: A Prologue"を読む。精神分析的な映画理論からフェミニズム映画批評への導入部となっている。議論の基礎として、シルバーマンは古典的な映画は映像がこうむる対象の不在や欠如に対する不安(去勢不安)を解決するために、それを性差の問題にスライドさせ、女性そのものを男性性の欠如した対象としてフェティッシュ化したのだと考えている(のだと思う)。声の問題は二章かららしい。

■対象としての声
A Voice and Nothing Moreが届いたので、導入部と一章を読み始める。論文「対象としての声」と同様、本書も声を三つの次元、つまり象徴界における声、フェティッシュな声(美的対象としての声)、対象aとしての声から考えることを目的としている。とりわけ、欲望の対象aとしての声を言語学が扱いえない声として、形而上学が純粋な現前のために棄却したものとして議論し、後半ではそれをもとに倫理学政治学として展開するようだ。
読んでいくうちに分かったが、「対象としての声」はこの本の一章「声の言語学」二章「声の形而上学」をかなり無理して要約したものだったようだ。三章ではHis Master's Voiceをもとにフォノグラフと声の快楽についても議論するようだ。なんとなく察しはつくが、おいおい紹介していきます。

声関係は精神分析関係が多いが、どうしても歴史とメディアの問題は欠けているので(アン・ドーンはそれを意識していたようだった)、早くまとめて自分の議論にうつること。