声のトポグラフィ(1)

(1)欲望の対象a=声のトポグラフィ
「音楽、声、言語」でのバルトは「声のきめ」を明確に対象aとして規定している。以前は「声のきめ」は声の物質性、声の身体として議論されていたが、ここでは意味作用から欠如したものとして議論されており、身体の物質性にも還元されないもの(自分自身を指し示している語られざるもの)として議論されている。では、この声はどこに位置づけられるのだろうか。

以前読んだムラデン・ドラーは第三章の「声の物理学」で対象=声のトポグラフィについて議論していた。人間の声は意味を伝達し、誰かの身体を指し示しているように思われると同時に、身体の内部に隠された汲み尽くせないものを指し示してもいる(対象としての声は聞こえるものによって示されると同時に、それ自体は聞こえないものでもある)。この対象としての声は身体に還元しきれない余剰として、収容しきれない収まりの悪さのようなもの、独自の身体―たとえばSteven Connorはこれを実在の可視的な身体と相反し、競合し、それに取って代わり、あるいはそれを作り変えてしまう「声の身体vocalic」「想像的身体imaginary body」と呼んでいる―を持っているのである。これを説明するために、ドラーはいくつかの事例を挙げている。たとえば、有名なビクター犬の書かれた「His Master's Voice」の主の声、腹話術、映画におけるアクースマティックな声(ミシェル・シオンが論じたオフ・スクリーンの声のこと)などである―ドラーの例の多くはテクノロジーに関わっているが、ドラーはテクノロジーの問題を考えたいわけではなく、単に分かりやすい極端な例として引いているように思われた。それらが誰か人間の身体に帰属する声であることを知りながら、快楽を覚えたり嫌悪するのは、声が本質的には特定の身体に還元できないからである。それらは権利上の所有者をはなれ、身体によって隠されることのない対象として不安を生み、あるいは別の身体にとりついて身体イメージを内側からゆがめるのである。

ところで、ドラーはバルトとは違い、歌声の中に対象aを見出していない。ドラーによれば、音楽は音声としての声をフェティッシュ化することで対象aを沈黙させるものだからだ(ドラーは音楽をほとんど論じていない)。バルトの方はというと「調音(アーティキュレーション)」としての歌声と「声のきめ」としての歌声を分けることで、後者に対象aの位置を見出していた。