みっくみく 2

明日から銀山で合宿。銀ではなく古文書を掘り出す魅惑のツアー。

■声のトポグラフィ
声の身体についてメモ続き。「声のきめ」という声の物質性、意味作用に還元されない歌う身体の悦楽は、物理的な因果関係という意味での物質性に還元できるのだろうか。声と身体の関係を考えるとき、物質性によっては担保されない二つの次元を考えることが必要であるように思われる。ひとつは欲望の対象aの次元であり、もうひとつが声の帰属関係をからみとる言説の次元である。これらはバルトが「声のきめ」で議論した意味作用が生まれる場としての身体、つまり表現の「主体」ではない零地点としての身体(こうした考えは「作者の死」と密接にかかわっている)からは抜け落ちてしまう心身の媒介性、権利的な帰属を考えるときに必要となる。ただし、バルトは1972年の「声のきめ」では「きめ」を物質性(器官)に還元しているように見えるが、1976年の「音楽、声、言語」(『第三の意味』所収のパンゼラについての講演)ではそれを「対象a」と呼び、物質性からは明確に分けている。

バルト「音楽、声、言語」での声
「人間の声は、実際、差異の特権的な(形相的な)場です。いかなる科学をも免れる場です。(中略)音楽を、歴史的に、社会学的に、美学的に、技術的に分類し、註釈してごらんなさい。必ず、残るものが、余分なものが、脱落が、自分自身を指し示している語られざるものがあるでしょう。それが声です。つねに差異のあるこの対象は、精神分析学によって、欠如するものとしての欲望の対象、すなわち、対象aという位置づけを与えられました。欲望の―あるいは、嫌悪の―対象にならないような人間の声は存在しません。」