「ふるさと」を殺す

森山大道遠野物語』をお借りした。森山は筆達者なので紙幅をさいて、この写真集に関する説明を記している。先日書いたように、森山の考える「ふるさと」とは非常に記憶を繋ぎあわせて構成される非常に想像的なものであり、まさにユートピア(=どこにもない場所)だという。そして撮影する以前、森山にとっての遠野とは宮沢賢治のイーハトーヴであり、柳田の『遠野物語』に現れるこの世ならぬ場所だった。では実際の遠野はどうだったのか。

「思いつめて実際に行ってみた遠野は、僕にとって、過不足なくというよりも、むしろしゃくなぐあいに『ふるさと』そのものだったんです。なんかこう、野や山がじつにいいぐあいにありましてね。光がみちみちていて、風がしじゅう吹き抜けてましてね。花が咲き、とんぼも飛んでいてって調子で、もうマイッタというか、メロメロになっちゃうんですね。で、むしろしまいには、あんまりイメージに合いすぎているので、ちょっと待ってくれって自分自身でとまどっちゃったんです。ほんとにオマエこれでいいのかいって感じや、ちょっとヤバイんじゃないかって感じが、フッとあるいまいましさをともなって襲ってくるんですね。」

ものの見事に記憶の「ふるさと」と遠野は一致し、そのあまりの一致に目眩を感じ、幻惑されてしまう。このような感じを僕は受けたことはないが、ともかく僕にとっても想像される「ふるさと」とはそのようなものであるように思う。このように始まった遠野の印象は、しかし写真というメディアを介することで幾分変化し始める。映り込んだ山口百恵のポスター、ショーウィンドーに反射する車、マネキン、アダルト雑誌の文字テクスト、それらの細部が「ふるさと」という記憶の総体をつき崩していく。写真集をめくっていくと細部が目にとまり、そこを逡巡し、甘美な記憶といったものは消えていった。森山によれば、カメラのレンズとは撮影者の記憶イメージと現実とがせめぎ合う場だという。カメラを構える森山は、「ふるさと」という甘美な記憶と現実の遠野で目にする様々な事物の拮抗の中で、結果として「ふるさと」を殺したのではないか。森山はもう二度と遠野へは行かないだろうと言う。「ふるさと」よさよならだ。

ただアジェの写真によく似た写真構成など、他の写真集との比較、森山の写真論の検討などしてみないと、単純にリアリスト森山で終わってしまいそうな気がする。難しい。