サブカル茶

サブカルチャー論」の講義が終わって数日。忘れるといけないのでメモ代わりに。増田聡さんによれば、サブカルチャーはおよそ3つの意味から成る(増田先生がwikiの記事をもとに整理したもの)。

1.主流文化に対する下位文化(社会で主流な価値観から逸脱する
  もの、あるいはそれに対抗するもの)

2.高級文化に対する低俗文化(多くの場合、大衆娯楽的な文化。
  例えば、クラシック音楽に対するポピュラーミュージック)

3.メジャーなものに対するアングラでマイナーな文化


判断する人がどの立ち位置に立っているかでサブカルチャーの領域は変化する。例えば、クラブミュージックは多くの場合、2に含まれると考えられるが、もともとヒップホップやテクノは1のようにカウンターカルチャーとして、白人社会や資本主義を批判する要素も持っていた。また何も抑圧されたものだけがサブカルチャーではない。現代美術の多くは美術館制度の中で高級文化に属しながら、主流な価値観を転倒させようと試みているからである。このように、「サブカルチャー」という語は、元来それが帯びていた意味(1の意味)から派生して分流を作り、絡み合い、複雑な領域をなしている。

現代美術のことを書いたけれど、美術館制度というものは時代によってその都度マイナーなもの、あるいは対抗的なものとしての「サブカルチャー」を包摂し、その領域を拡大しようとする傾向がある。つまり、カウンターあるいは低俗と呼ばれていたものはやがて主流あるいは高級というカテゴリーの中に流し込まれてしまう。下から上へ掬い上げるという流れはまた、新たな「サブカルチャー」を生み出し、また回収されていく。「サブカルチャー」はそれ自体で存在するのではなく、当然それがはみ出した文化、あるいは抵抗している文化との関係にあり、常に流動的な運動を成している。

僕が研究している「民謡」も西洋から流入してきた音楽あるいは都市で成立した音楽(長唄や三味線)に対して「サブ」の関係にある。であるならば、当然それらに対する差異を何らかの形で意識していただろう。誰がどのような形で「民謡」を他者に対してプレゼンテーションし、「民謡」を作り上げていたのか。そのことをよく考えなければいけない。