鳥になれるもんならなってみたいですよ

前々回の続き。混乱はまだまだ続くのか。何はともあれ、場所と音楽の関係を反映論的に単純化して考える聴覚文化研究を見直したいというのが、「民謡保存会」を取り上げるきっかけだったことを思い出したのでちょっと確認してみたい。えらく遠回りしたので、当初は考えもしなかった問題が山積みに。とりあえず、いっちょやってみっか(孫氏の言葉)。

1159294759*近年、サウンドスケープの登場などによって、音楽をその内的構造だけでなく、住環境やその音を含む場所との関係性から捉えようとする動きが活発になっている。音楽都市論や民族音楽研究(スティーブン・フェルドなど)はそれを代表している。しかしその反面、パフォーマンスを含む様々な音楽実践は場所を反映するものとして、非常に単純に扱われる傾向にある。他者によって見出された音楽は録音媒体に乗り、あるいは視覚的メディアに乗り、それによってある一面を切り取られ、場所のイメージを生産することだってある。そのイメージに乗って、観光が行われたり、場所が作り替えられたりしていく。それが再び音楽のイメージを生産し、新たな実践を生み出していく。音楽と場所は鏡と実体の関係ではなくて、見方によっては合わせ鏡のように連綿と続く像の生産ではないか(合わせ鏡という喩えも適切ではないと思うが)。サウンドスケープ的な研究はおそらく時空間を限定して音楽と場所の関係性を問うところに問題があるような気がする。その間の複雑な運動を考えなければいけないのでは・・・。わけわかめ

などと考えて、今の対象にたどりついた。今考えると、月に行きたいから家を飛び出してとりあえず自転車に乗ったみたいな感じなのか。今の対象とサウンドスケープを何とかつなげたいのだけど。混乱を収めようとして、ますます取り乱してしまった。そのうちまた続く・・・。

鳥になった少年―カルリ社会における音・神話・象徴 (テオリア叢書)

鳥になった少年―カルリ社会における音・神話・象徴 (テオリア叢書)