旅と女と安来節

今日は学会に向けての予行演習。とにかくかみまくった。サ行が言えない。時間も少しオーバーしたので、余裕を持って読めるように文章をきりつめないと。内容的には音楽分析と踊る身体の分析がやはり必要だとつっこまれる。序文と結論部でどう切り抜けるかが課題か。

 今日、先生と話していて急に思いついたことが。安来節に関して絵葉書などの分析をしていると、身体表象としては「土臭く、それでいて清潔で、重すぎないほのかなノスタルジア」を喚起するように構成されていることが分かる。それに対して、歌を聴いても、演奏を聴いても、ノスタルジアはいっこうに感じない。それどころか安来節の歌は非常に音高が高く、庶民の歌どころかヴィルトゥオーゾと言ってもよいくらい技能的に高度なものが要求される。ここにいわゆる素朴な「民謡らしさ」の記号を何とか聞き取ろうとがんばったが、何かしっくりこなかった。今日気付いたのは、むしろ逆サイドから攻めるということだ。
 安来節が歌のヴィルトゥオーゾとしてではなく、「土臭い庶民の歌」として成功したのは、歌よりもむしろ、それを取り巻く表象ー歌と独立している踊り、衣服、舞台構成、絵葉書などの視覚的メディア、新聞ーに起因するのではないか。安来節と聞いたとき、あの甲高い声を思い出すのではなく、中空を諸手で掬ってしまうのは、歌よりもむしろ身体の動きを初めとする視覚的イメージが安来節の印象を作っているからだろう。これはもしかしていけるんじゃないのー?という論を実現するために、もう少し音楽分析の方も進め、身体分析とメディア分析をきっちりやっていかねばならない。この方向で行けば、「民謡らしさ」がいかにメディアによって形成されるかという論をもう少し一般化できるかもしれない。

1940年に新興シネマから「安来節お秀」という映画も出ていたらしい。これを見つけることと、あとは「男はつらいよ」と「釣りバカ日誌」に安来節が出てこないか調べてみることが課題。「男はつらいよ 寅次郎恋やつれ」と「釣りバカ日誌スペシャル」が怪しい。あともしかしたら「旅と女と寅次郎」(都はるみ主演)でも民謡が関係しているかもしれない。