おつゆです

■公開プロスペクト
丁寧なコメントをいただき、ありがとうございました。本当は昨日直接聞かせていただこうと思っていたのですが、吐いたり、寝たりしているうちに一日が終わってしまいました。すみません。いただいたコメントは自分でも不十分だと感じていた点で、どうしようか悶々とする日々です。以下、反省を生かしがんばろうという意志表明みたいになってしまいましたが、先の見えにくい展望です。

①視覚的メディア(絵画・写真・車窓)間の関係、それらと聴覚的メディアの関係がどのように働いていたのか。

→レコードで流通していった安来節を分析すると、メロディが高音化していくこと、テンポが遅くなっていくことなどが特徴としてあげられ、極度に技巧化していくという特徴を持っていることが分かりました。それが安来節の歴史の奥行きの表象に繋がっていくのではないかという議論にもっていこうかと思っています。それが風景を見るという体験においてどのように働いているのかということをもう少し細やかに分析することが課題です。
 今回、一番悩んだのが車窓と写真の関係でした。車窓を通して見るということと、定着したイメージとして写真を見るということはもちろん異なる体験なのですが、その関係性と差異を明確に語ることができませんでした。この点についてはまた相談させていただくかもしれません。あとは絵画なのですが・・・。これはどうしたものか暗中模索です。

②車窓の歪められた風景(先日書いた歪んだガラスから見た風景)についてもう少し展開する方が良い。近代的なシステム(国家や資本の秩序)を整序する乗り物である鉄道が、実はそれを壊乱させてしまうような歪み(キュビズム絵画が乱舞するかのような光景)を視覚から引き起こしたのではないか。さらに、それを何とか別の近代的な表象(おそらくは遠近法を採用した絵画)に押し込めようとする場だったのではないか(うまくまとめられませんでした)。

→この議論は非常に面白いと思います。この点に関しては、もう一つネタを仕入れたので、この壊乱による興奮とそれに対する葛藤みたいなもの、そこから秩序化していくものの見方を捻り出してみます。鉄道に乗っている人は「絵のように」見ていたのではなくて、他に説明する言葉がないような知覚体験だったために「絵のような」見方が形成されたのではないかと考えたりもしています。

③内部の外部(普遍の中の特殊)が内部(普遍)の要請したものだという論理構成が一貫しているために、一様になっている。内部の外部と内部の対立を揺るがせるものは果たして無いのか。

→この問題については悩みどころです。僕の議論自体がノスタルジックになっているような気もしています。何か外部が外部としてあった頃の安来節があったかもしれないかのように書いてしまうことは最も避けたいことです。安来節が内部を浸食してしまうような地点、「あれ、民謡って自分たちが思ってたものじゃなくて、これが本物かあ」みたいな話があれば面白いのですが。これもまた課題として考えたいと思います。

④名前について
正しくは「安木節」ではなくて「安来節」です。少し悲しくなりました。

以上、関係者にしか分からない内容ですみません。ブログって公私のバランスが微妙で難しいですね。

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今、トランスが熱い。これほどグローバルな言語として発達した(いや、あくまでも発達したと見せかけた)音楽はない。いまや、その勢いは安来節にまで届き、パラパラ安来節なるものまで作り出してしまった。
http://www.city.yasugi.shimane.jp/kanko/movie/parapara.mpg