宇宙に飛ぶことのできないテクノたちとヴィオラ

■テクノ夜話
コンピューターおばあちゃんを聞いて懐かしむ。レトロフューチャーとまで行くことすらかなわぬアニメーション。ふるさと的な懐かしみのおばあちゃんと最新鋭のパソコンは合体し、宇宙へと飛び立つ。まるで宇宙戦艦ヤマトか老人Zのような、壮大なストーリーがあるのだろう。

テクノと宇宙はなぜ結び付くのか。「テクノ」という言葉が生まれたのは、80年代のデトロイト(いわゆるデトロイト・テクノ)。ホアン・アトキンスというテクノの大御所が言っていた言葉に面白いのがある。

資本主義構造の中で抑圧された自分たちが、資本主義の枠組みから逸脱してしまった電子楽器をゴミ捨て場から拾い出し、自分たちの音楽を作り、音楽産業の価値を転覆させる。

確かこんなのだった。テクノ・ミュージックの作り手はほとんどが貧困層の黒人。詳しいことはこちらを参照

えらくやる気だ。「抵抗の快楽」と副題がついて載っていそうな言葉である。その一方で、テクノの電子音は抑圧された人々が逃亡する仮想の空間をスピーカーから捻り出しもした。彼らはいろんなとこに逃げた。宇宙、火星、自分を海底人だと言って憚らない太った人もいたが、心臓発作で亡くなった。現在のない未来が宇宙にはある。ここではない何処か、遠くへ行きたい(永六輔)、それが当初のテクノが抱いた宇宙幻想であり、それを運ぶのが大音量の電子音で満たされたダンスフロアだった。過去のないノスタルジア

ビル・ヴィオラ「はつゆめ」
授業で兵庫県立美術館へ。森美術館でやっていたときに比べて作品数が減ったとのことだが、だらだらと出たり、入ったりしているうちに5時間弱もいた。それにしても、シンプルなアイデアながら、受け取る情報が多い作品群だったように思う。映像はゆっくり動くが、目はその上を素早く精査する。自分の身体との時間のズレがあまりにも気になって、骨の軋む音がした。