ネヂレと耳

■浅草趣味
修論提出前にすがろうとした藁が今届く。江戸川乱歩が大正15年の『新青年』に掲載した「浅草趣味」。前置きが面白い。本当は探偵小説を書こうとしていたんだけど、書けなくて、自分は金のために書いているんだけど、良いものでないなら無理に載せたくはないし、あまり急くのは良くないと思う、でももう少しで書き終わるとこだったんですけどね、いや来月はちゃんと載せます、ほんとすみませんでした。と言い訳をしてから、代わりの浅草エッセイを書き始める。先日も載せた気がするが、安来節に関する箇所。

「先づ第一は、和声ジャヅと云はれてゐる通り、小屋全体が一つの楽器であるが如き、圧倒的な、野蛮極まる、凡そデリケートの正反対である所の、あの不協和音楽の魅力である。これは浅草公演のある小屋に限られてゐる現象で、まして他地方の安来節には殆ど見られない所だが、舞台の唱歌が段々高潮に達して来ると、小屋全体に一種の共鳴現象が起るのだ。」

「もう一つは、僕達の通り言葉なんだが、あれの持つネヂレ趣味である。ネヂレといふのはどこかの方言で、いやみと訳せば稍当る。いやみたつぷりなものを見ると、かう身体がネヂレて来る。そのネヂレを名詞に使つたのだ。我々一応はネヂレなるものを厭に思ふ。だがそのネヂレさ加減があるレベルを越すと、今度はそれが云ふに云はれぬ魅力になる。他の例で云ふならば、愚痴といふものは、普通ならば聞き度くもない厭なものに相違ない。だが、それがあるレベルを越すと、つまり一方に徹すると、非常な魅力を持つて来る。紅葉の「多情多恨」だとか、秋江の「黒髪」なんてもののよさは、半はこの点にありはしないかと思ふ。安来節がやつぱりそれで、あの位ネヂレになると芸術に近い魅力を伴つて来る。」

分かるようで、やはりさっぱり分からない。「あの位のネヂレ」はどんなネヂレなのだろうか。そのネヂレが身体をネヂレさせ、ただじっと聞いていることを許さないために共鳴してしまうのだろうか。良いネヂレ情報をお持ちの方がいらっしゃったら、ぜひ提供してください。

■聴覚文化読本
序文を読んだので、まとめを大ざっぱに。
1.聴覚文化を論じる目的の一つは、視覚中心的な世界の把握から、複層的な解釈へ移行することにある。
2.しかし、聴覚文化研究は、感覚のヒエラルキーの逆転を狙っているのではない。諸感覚の複合的な意味の層を論じるための契機を用意することに意義がある。
3.聴覚による考察は、視覚的認識論が依拠する主体ー客体、内ー外の関係をずらす。視覚は「距離を置くdistancing」感覚であり、「私」と「あの世界」=「他者」は分離される。聴覚は「我々」そのものである。
4.一方、テクノロジーは音の私有化という状況を生んだ。私に閉じていく聴取は、他者にとってはノイズ=不快にもなりうる。ウォークマン、カーオーディオ、様々なテクノロジーがそれに関わっている。そそれらの使用者は、自分自身の時間と記憶を管理する。
5.しかし、単に個人化していくような状況だけがあるわけではない。「ともに聞くこと」は消失したのではなく、あり方を変えたのである。音はマスメディア状況の中で、様々な強度を持った集団を媒介している。(クラブミュージック、民族音楽など)

最初に意気込みを語って、後は断片的に現在の状況を語っていくという内容だった。

加えて、聴覚文化研究の新たな方向性を提示すると同時に、音を表象する手段を模索することが課題として挙げられていた。「悲しい」「美しい」「静かな」など形容詞で論じられることが多い音。文化の多元化が当然のものとなった今、聴覚文化研究が方法として確立するには、様々な音現象を名付け、語る明確な言葉が必要だ。

これから読む論文としては、以下のどちらか。前者は民謡研究の参考に、後者はウォークマン論。
・Paul Gilroy,"Between the Blues and the Blues Dance:Some Soundscapes of the Black   
Atlantic"
・Jean-Paul Thibaud,"The Sonic Composition of the City"