■授業がはじまる
 授業がはじまる。4月だけは人が多い。卵からかえった虫たちが春にはわらわらとやっと来て、弱き虫たちは消えていき、立派に成虫になった人たちだけが冬も毎日学校に来る。死につつも学校に来るような、たまにゾンビになる人もいる。
 マンガの授業ではじめて『テヅカ イズ デッド』を読む。サブカルチャーであり、劣った表現形式であると言われていたマンガを、マンガに特有の社会的意味と表現形式をもとに考えようと開始されたマンガ研究。その言説が現在の多様化したマンガ状況に追いつけず、以前のマンガ的価値にのらないものをサブ的なマンガと位置づけ、結局はマンガ論の単層さを露わにしているのではないか。というようなことが書かれていたのではないかと思う。ポピュラー音楽研究にも共通する問題意識。カルチュラル・スタディーズの限界とその乗り越えが問題なのだろう。
  

■A SPIRAL WAY
1 THE TALKING MACHINE-MARVELOUS INEVITABLITY
 訳したままほったらかしていたので、まとめてみる。シリンダー式フォノグラフに対する技術的要請に関する言説からディスク式に移行していく際の言説までをざっとまとめた章だった。資料としてはありがたいが、もう少し詳細に論じて欲しい点もいくつかあった。
 サブタイトルになっている「驚くべき必然性」とは、時間・空間的な距離の克服にかける19世紀の情熱と、インデックス的なもの(参照物に直接結びつけられ、参照物を文字通り指し示し、参照物に由来する諸々のモノ)の蓄積への視覚的・聴覚的な関心の共通性を指している。エディソンによって発明された蝋シリンダー式フォノグラフ(録音再生可能な装置)は声の蒐集・保存を要請する民俗学の欲求、モノとして死者の声を持ち、針で触れ、哀悼する大衆の欲求にのり、流通していった。現在とはまったく異なった使用のされ方(声のアルバムの作成など)がなされていたのである。

一章では、ベルリナーのディスク式フォノグラフが登場し、シリンダー式の製造が終わり、音楽が録音済みのディスクが流通しはじめるまで(1930年代まで)を論じている。気になるのは、なぜフォノグラフは再生機能に限定されるようになったのか、また声を録音する媒体から音楽を録音する媒体への移行がどのように起きたのかということ。筆者は民俗学研究とフォノグラフとの関係が目的なので、その辺りのことはあまり書かれていない。