東京に

授業をさぼって東京に来ています。今日は下町風俗資料館大宅壮一文庫へ行って参りました。高速バスは「らくらくシート」で4500円。らくらくではありませんでした。これより下のランクの席はもう荷台かなんかです。

わかったこと
安来節は大正期から「なんば歩き」ではなかったこと
・意外にも女性にも人気だったこと
・昭和初期にも、レコードやラジオで流通する音楽と上演される音楽はまったく異なっていたこと。むしろ、浅草は録音再生メディアで流通していないことに価値が置かれたこと。
大宅壮一オリジナルテレホンカードが発売されていること

などです。民謡に関する資料はそれほどなかったけれど、当時の状況を具体化する資料が少しずつ集まってきました。もう一度、資料を整理してまとめます。

■はしか
東京に行って風邪らしきものにかかりました。もしや、はしかでは。

■The Audible Past(邦題については思案中です。どなたか良い案をください。)
序文の要旨 

 本書の大きな目的は、初期の録音複製技術が出現した際の社会的かつ文化的なコンテクストを明らかにすることにある。諸々の複製技術(フォノグラフ・ラジオ・電話など)は技術的な基盤がすでに用意されていたにもかかわらず、なぜ/いかに20世紀初頭の特定の契機に登場したのだろうか。その際、本書が注目するのは聴覚における近代的主体の成立と複製技術との関係である。18世紀から19世紀にかけて、聴覚は特定の範囲の振動に反応する感覚として概念化され、修正や加工あるいは補助の対象として成立するようになった。録音複製技術は「聴取の技法」の要請によって登場し、また特定の「聴取の技法」を要請するのである。本書は近代的な聴取者を様々な聴覚装置をもとに批判的に考察する。
 もうひとつの目的として、聴覚の歴史学をひとつの研究領域として確立することが挙げられる。従来、聴覚は常に視覚との関係において考察されてきた。多くの論者が聴覚−視覚の関係を、球ー線、主観ー客観、内部ー外部のような二項対立においてとらえ、かつ視覚の優位性というヒエラルキーにおいてとらえてきた。そのため、聴覚は視覚=近代的主体のモデルに抑圧されたもの、あるいはそうしたモデルを転倒させる(人間性を回復させる)ものとしてなかば自然主義的に考察されてきた。結果として、感覚の歴史は感覚の<間の>歴史に回収されてしまった。だが実際には光の啓蒙主義(enlightment)とは別に、音の啓蒙主義(ensoniment)も実践として行われていたのである。本書ではこうした歴史学への反省から、聴覚の歴史を外部からではなく内部から考察する。


間違っていたら指摘してください。目次は以下のとおり
1.Machines to Hear for Them
2.Techniques of Listhening
3.Audible Techniques and Media
4.Plastic Aurality:Technologies into Media
5.The Social Genesis of Sound Fidelity
6.A Resonant Tomb
Conclusion:Audible Futures