「聞く」ものではない歌謡

■語り物レコード
渡辺裕さんの論文「レコード・メディアと「語り」の近代−「映画説明」レコードとその周辺−」を読む。オングの「声の文化と文字の文化」を紹介し、「近代化」を声(聴覚)から文字(視覚)へのパラダイム転換と見なす議論の単層性が指摘される。近藤裕己が浪花節研究において示したように、口承文化の近代化とは単に声が文字に組み込まれていく過程ではない。むしろ近藤は口承文化的な「語り」こそが、「声の共同体」として国民国家を表象していたのではないかと指摘する。渡辺裕はそうした近藤の議論を引き継ぎ、メディア文化の受容を単に口承文化の抑圧としてとらえるのではなく、「語り物」との接合の中に聴き取る。そこで分析の対象となるのは映画をめぐる実践である。映画は弁士による「語り」、オーケストラによる「演奏」とともに上映され、ときにはスクリーンの前後で寸劇のようなものも行われた。「映画」「演劇」「音楽」の自律性は自明なものではなく、むしろ相互に連結された形で受容されていたのである。レコードの一般的消費が増加した昭和初期において、「流行唄」の多くが映画あるいは演劇のために作られた曲だったことも、メディアミックス的な受容のあり方を示していると渡辺は論じる。

僕も「流行唄」のリストを何度も目にしたが、このメディアの相互関係には気付かなかった。「音楽」というジャンルの自律性が自明なものとして身についてしまっていることに気付かされた。それは「聞く」ためにのみ実践されていたわけではなかった。民謡・歌謡と、その「外部」と思われてきた演劇・映画との間の経路に注意する必要を感じた。心に留めつつ、モノや言説を分析しよう。