ジョジョ

ジョジョ立ち
マンガの授業でジョジョ(荒木比呂彦)班に人が来てしまったので調べる。ジョジョと言えばオノマトペだと思ってウェブなどを探してみるが見つからない。多かったのは「ジョジョ立ち」についてのページ。マンガ『ジョジョの奇妙な冒険』を読んでいると、登場人物たちは現実世界の我々が普通はとらないようなポーズをとっている。明らかにおかしいけれど、マンガのイメージの中でバランスがとれているポーズ。それを現実に再現するのが「ジョジョ立ち」。とうとう『現代日本の基礎知識』にも載ったようだ。「ジョジョ立ち」のカリスマと「ジョジョ体操」。うーん。
http://kajipon.sakura.ne.jp/jojo.htm
http://zenryokuhp.com/Flash/taisou2.html

瓜生吉則「マンガ論の系譜学」
鶴見−石子−夏目・四方田の議論の連続/非連続を確認する。問題とされるのはマンガについての<表現論>と<反映論>の対立しているかに見える図式を斜めに繋ぐことである。鶴見・石子らの議論の中心にあったのは、表現に社会がどのように反映されているかということではなく、描く−見るというマンガを軸にしたコミュニケーションのあり方にあった。両者の議論は<表現論>と対立する<反映論>ではまったくない。瓜生さんは、鶴見・石子らの議論が<反映論>として切り捨てられてしまうのは、それらの議論が70年代に持っていたリアリティを無効化した現在の視点を自明なものにしているからではないかと指摘する。つまり<表現論>が扱うのは、コミュニケーションの様式ではなく、それらがもはや自明なものになり、集団が消失した<わたし>という個人の視点である。瓜生さんによれば、そうした<表現論>が有効にうつるのは、コマや線の意味に対する集団の多様な読みを無視し、個人の視点を一般的なものとして扱っているからに他ならない。

瓜生さんの目的はこの現在の視点を相対的に批判するために、過去の議論が歴史的に持っていた意味をたどることにあるが、最後少し唐突に終わった気がしたのは、新たなマンガ論に向けての展望があまり見られなかったからかもしれない。このような批判のもとでどのようなマンガ論が可能か、それを読みたい。でも、議論の切り出し方の面白い論文だった。

■速記論文
 清水康行の論文「速記は「言語を直写」し得たか」を読む。速記者らが標榜したのは速記は音声言語を「写真のように」紙に写し取ることのできる技術だということだった(速記には音声写真法という別称もあり、同時性・瞬間性がさかんに強調された)。そうした記録性を受けて、国語史の研究者たちは明治期の速記文を当時の口語を知る資料として扱っている(おそらく言文一致運動の浸透の過程を知ることが目的のひとつにある)。それに対して論者は、この速記がどれほど信頼度のある記録技術だったのかということに注目する。
 速記は音声言語を我々が一般的に使用する記述言語で書き取るのではなく、速記用に考案された記号で書き取る。「ではありません」などはひとつの記号で表された。こうした速記記録は、当然そのままでは読めないので、何人かの解釈者によって文章に書き起こされることになる。この反訳の際、記号によっては解釈の<揺れの可能性>を引き起こすことがある。論者は、反訳において言文一致以前の文語体に書き直されてしまう可能性を有していると指摘する。
 
 しかし、速記は「言語を直写し得たか」と言われれば、当然無理ですと答えるしかない。録音技術は音響振動の完全なるコピーを目指していますが、完全なコピーなどあり得ませんと言っているのと同じだ。逆に、こうした問いが見落としているのは、なぜ言語を直写し得ると考え、またそのように読まれたのかという問いではないだろうか。なぜ速記がリアルな音声言語の記録としてとらえられたのか、それを録音以後の視点からではなく、(瓜生氏のように)速記のリアリティから考えなければならない。