ヤケドと眼と耳

yasuhamu2007-06-11

■ヤケドを負う
最近やたらとケガするが、バイト中に手をヤケドした。写真では分かりにくいが、1センチ強くらいの高さにこんもりと腫れている。会う人会う人みんな水ぶくれを潰そうとするが、触ると柔らかくて気持ちよいのでしばらく置いておくことにする。光に透かすと琥珀みたいできれい。

■視話法
最近、気になる素材が「視話法」。日本では「楽石社」の伊沢修二が有名だが、この方法は吃音矯正や聾唖者の会話教育のために明治から大正にかけて利用された。それがどういうものかというと、「視話法」は話し言葉に対応する視覚的記号を読むことで(見ることで)、吃音や耳が聞こえないために生じる発音の不明瞭さが矯正できるという理念を掲げていた。この方法で吃音が治らない人は努力が足りないと非難されるほど信頼を得ていたようだ。音響の振動のインデックス的な記号ではなく、恣意的に考案された象徴的な視覚的記号が耳を介さずに言葉に直接影響を与える、この理念は今考えればまったく論理的ではない。しかし、明治期における視覚と聴覚の相互関係を考えれば、速記と合わせて重要な意味を持つのではないかと思う。それらは読む(見る)行為を通じて、まるで録音再生装置であるかのように扱われる身体によって発音されることでリアルな表象として成立した(混乱してきた)。

機械的複製によって音響をインデックス的に記録・再生することと、機械的な身体によって音を記録・再生すること。鼓膜を介さない「視話法」。「鼓膜」を軸にした複製技術の以前と以後を、音響の記録を軸にどう繋ぐかがこれからの課題。柳田国男らの民謡採集が複製技術以後も文字によって行われたことは、言文一致と国民アイデンティティの問題だけで語られてきたが、どうもそれだけではない気がする。日本では、速記的な音声記録のリアリティが強かったのではないか。これはただの推測に過ぎないし、まったく間違っている可能性もあるが、音声あるいは音響のドキュメントをめぐる問題は、修士論文でちゃんと書けなかった問題ということもあるし、明らかにしておきたい。

京都精華大学紀要に視話法論文があったので、お取り寄せ。文献や先行研究はあまりなさそうな気配。

■パフォーマンス研究
指導教官に勧められる。

Performance Studies: An Introduction

Performance Studies: An Introduction

リチャード・シェクナーによる文化人類学の側からの舞踊研究。タイトルはカルチュラル・スタディーズからの影響だろうか。ともあれ、ブリコラージュ的な民謡の踊りを考える上での参考になるだろう。読むべし。
日本の研究者でも同様の動きがある。
[rakuten:book:10709407:detail]
ポストコロニアリズム研究が定着する一方で、議論が同一の平面に固まる傾向も顕著な気がする。距離を取りつつ参考にしたい。

研究の方向が複数になってきたので、気をつけないと散ってしまいそう。広く深く、点から線に、線から面に。