トーキング・マシンと蓄音器

□集中終わり
渡辺先生の集中講義は昨日で終わり。僕にとっては何ともエキサイティングな授業だった。文学研究におけるステレオタイプ化したナショナリズム批判、それを肯定した上で、言説の地層のズレを見ること。ただ、関心がここまで重なってくるとなると、ステレオタイプからの抜けだし方も、ステレオタイプになりうることを意識しておかなければならない。渡辺裕さんの民謡研究は、いずれ書籍になって公刊されるそうです。

北海道へのチケット代を買う。安いチケットだったが、便がなくて4泊することに。今からお金の節約のため、ひさしぶりに自炊をはじめる。昨日はご飯を2合炊いて、漬け物で2合食べた。

□トーキング・マシーン
1860年代、ダーウィンの進化論の影響のもと、アメリカで言語に対する見方がどのように変わったのかをおさえる。Science誌にいくつか記事が見つかった。

進化論と言語コミュニケーション

The Expression of the Emotions in Man and Animals

The Expression of the Emotions in Man and Animals

Inquiries into the Origin of Language

Inquiries into the Origin of Language


フォノグラフに対する初期の反応をまとめたもの。録音する機械ではなく、話す機械として需要された経緯について。

A Spiral Way: How the Phonograph Changed Ethnography

A Spiral Way: How the Phonograph Changed Ethnography

初期のフォノグラフにおいては「原音」と「コピー」という対立はほとんど成立していなかったことが分かる。

著者のエリカ・ブラディはこうした状況に対して、フォノグラフが見世物的な「娯楽」ではなく、真面目seriousな用途=記録に用いられるようになるには技術的な改良が必要であったと指摘しているが、こうした見方自体、様々な社会的プロセスを経て成立したものではないかと思う。音のドキュメンタリーとして、過去の音楽や遠方の音楽を理解するためにフォノグラフを使用するということは、1930年代以降のハイ・フィデリティ言説とともに生じてきた。トーキング・マシンとしての理解を単なる理解不足や進展すべき遅れと見なすならば、それが当時持っていたリアリティ、人間と技術との相互関係を見過ごすことになるように思う。

メモ
文化人類学者のエドムント・カーペンターによれば、新しい技術メディアが持つ自己反省的な能力は、人々が自らの口を覆い、首をすくめるような恐怖と高揚感をもたらした。この反応は、アイデンティティの象徴的な破棄に気付いて生じた反応である。アイデンティティの喪失を妨げるようとする試みに立ち遅れて、人は口を覆うのである。」