フォノグラフを作った

昨日は研究会の準備打ち合わせと予行演習。原稿が間に合わなかった。もう一度、議論を整理し、積み直す。当たり前だが次は必ず

その後はフランス留学から帰ってきた先輩の歓迎会。元気そうで何よりだったが、気付いたら、なぜ俺に彼女ができないのかに議論がシフトしていた。きれいにすること、服を新調すること、声に深みを出すこと、これがポイントらしい。とりあえず風呂には入って、ウィスキーでうがいして喉をつぶしてみよう。

□プレゼント
プレゼントをいただく。みうらじゅんの本に載っていた安来節テレカの画像。シリアスな追分節とは一線を画す安来節キッチュさは相変わらずだ。なぜテレカに、そしてどのように流通していたのか、気になる。


フォノグラフ

新エジソン式コップ蓄音機

新エジソン式コップ蓄音機

シリンダー式フォノグラフってどんなもんじゃいということで作ってみる。手動ではなくモーター式。かなり大声で喋らないと声は聞こえず、声が低い後輩の声はほとんど聞こえなかった。ノイズの音が大きいが、スピーカー式ではないせいだろうか、ノイズの背後から声が聞こえるというよりは、ノイズと声が溶け合っているように聞こえる。

単に音がコピーされることではなく、フォノグラフというモノから声が聞こえてくることに人々が感じた不気味さ、驚き、好奇心がなんとなく実感として分かってきた。存在を忘却される透明な媒介項ではないモノとしての存在感が、初期フォノグラフの受容においては顕著だったのだろう。フォノグラフの形についての記述なんかがあれば、もっと面白いかもしれない。

引き続き、音の記録性についてエミリー・トンプソンの論文を読む。1900年代頃から、フォノグラフの記録性を実証することを目的として、頻繁に公開実験が行われていた。その多くはフォノグラフと歌手の姿を隠し、音響の類似性を比較してみせたという。純粋に聞こえるものが問題になったのは、こうした実験のプロセスによるもの。

アドルノフォノグラフ
こうした議論と、アドルノの「レコード針の溝」という論文の中で関心を引いたところがつながってきた。アドルノは、レコード音楽について音を鳴り響かせるべき身体の不在という観点から批判している。その一方で次のように指摘している。

「身体それ自体が鳴り響くところ。すなわち、グラモフォンが指し示さんとしているあの「それ自身」とグラモフォンの響きとが完全に一致するところ−−グラモフォンが己の正当なる妥当領域を見出す場所は、そうしたところを措いてほかにない。」

レコードの音は不在の身体を直接指し示すべく、音響の一致を企てる。音響が直接「それ自身」を指示できない場合(アドルノは女性のオペラ歌手を例に挙げている)、アドルノによれば、響きが「身体から完全に分離してしまった場合」、あるいは「身体というものを補完物として必要とする場合」、レコード音楽は何らかの問題(アドルノは明確には説明しない)を抱えることになる。

レコードの音はそれ自体がインデックス的に対象を指示することができるのではなかった。アドルノによれば、初期の録音においては、有名なカルーソーの声のようにレコードに適応した声でなければ、鳴り響く身体を直接指示できなかったのである。身体の不在を想定される音響の一致によって覆い隠すのが、レコードの記録性のロジックである。こうした一致は、媒介項としてのフォノグラフが不透明な物質性を持った瞬間に崩れ去ってしまう。