美学会の後

京都で飲み、終電は当然のように無く、満喫に泊まり、競馬新聞を運ぶ。

美学会の時は学生の間でガチンコ議論したが、そういう機会をもっと増やしましょう。

美学会の後
なんだか必死に素材を探して、無理矢理がっと押し込んだような発表になってしまった。素材をまとめる視点(メディアの不透明性)が単一すぎること、複数の言説の間の差異(18世紀と19世紀の諸科学の差異、同時代の差異)を明確にすること、などなど様々な問題が浮かんできた。またメディアの「透明化」は単純な移行なんですかと指摘もいただいた。もちろん、1920年代にも一種の「不透明性」は見ることができる。ただし、不気味なトーキング・マシンではなく、別の形で。「透明化」はあくまで言説の問題だということを、もっと明快にしなければだめだ。

まずは、それらの問題を支える理論的な基盤を作ること。人間−技術あるいは芸術ー技術の対立をどう捉え、どう解消するかが課題だ。