映画理論

□ジェイ『伏し目』「メメント・モリとしてのカメラ」

トム・ガニング「アトラクションの美学」と自分の研究との距離を測る。

「新」映画理論集成〈2〉知覚・表象・読解 (知覚/表象/読解)

「新」映画理論集成〈2〉知覚・表象・読解 (知覚/表象/読解)

担当箇所のジャン=ルイ・ボードリー「装置」、クリスチャン・メッツ『想像的シニフィアン』を読んでみる。
映画と精神分析―想像的シニフィアン (1981年) (白水叢書〈57〉)

映画と精神分析―想像的シニフィアン (1981年) (白水叢書〈57〉)

両者とも精神分析を使って映画装置を論じている。ボードリーとメッツは、理論的な道具立てとして、それぞれフロイトナルシシズムラカンの「鏡像段階」を適用している。もちろん、ボードリーが映画を幼児期あるいは原始のナルシシズムへの退行的願望としているのに対し、メッツは幼児期の「鏡像段階」をそのまま適用しているわけではないという重要な点も抑えなければならない(「鏡像段階」には象徴的秩序がまだなく、社会的人間を想定することができないから)。メッツの場合、同一化の作用は、イメージ上の登場人物に自己の全体像を認める同一化というだけでなく、遠近法に基づいた超越的主体の位置に観客が同一化することを意味している。だが、共通するのは、両者とも何らかの形で映画を同一性の観点から論じている点である。

まだ精神分析理論をおさえきれてないため、両者の問題点を汲み尽くすことはできないが、明らかな問題として言えるのは、両者とも映画装置を論じているにもかかわらず、映画(cinema)という装置(dispositif)を構成する装置(apparatus)の差異を論じておらず、映画というイメージを見ることについて論じている一方で議論からはイメージは見えてこず、ここで言われるイメージは音のないイメージだということだ。また、両者の議論は歴史性を考慮に入れていないため、観客とイメージの関係は常に一定になってしまう。
ある人は、精神分析的映画論については、こういう議論もかつてはあったというだけと言っていたが、何か活かす手はないんだろうかと思ったりする。うむー。発表前なのに、結構おもしろく読んでしまったが、とりあえずは映画で悩んでる場合でなかった。