みっくみく

時間が経ってしまったので先の日記の続きをうまく書けなくなってしまった。1960年代に出てきたミューザック方式の疲労曲線BGMとかヒーリング音楽と、サイケデリック・カルチャーやレゲエのドラッグ的な音楽の表裏の関係がうまく考えられるかと思ったりしたのだった。

初音ミク
ユリイカ初音ミク」特集を読んだ。ボーカロイドの声と人間の声を比較するにあたり、焦点になっていたのは「声の肌理」だったように思う(「初音ミク」は身体をもつ/もたない、藤田咲の身体に帰属する/しない)。バルトは意味作用に還元されず、その余剰として歌手の身体を指し示す声の物質性を「声の肌理」と呼び、それを意味が形成される場として、意味作用のゼロ地点として、享楽の場として議論した。しかし、我々が議論の前提としているように、バルトがパンゼラのレコードから聞きとったという「声の肌理」は果たしてパンゼラのなまの身体に帰属しうるものなのだろうか。というのも、蓄音機(や初期のトーキー映画)についていろいろと資料を読んでいると、声とそれが帰属する身体について、いくつもの混乱した議論がなされているからだ。そのもっとも顕著なものが身体なき電気的な身体としての幽霊の声である。そうした世紀転換期の言説を読んでいると、むしろ声を発する身体は声のおまけとして、腹話術の人形のように後づけされたもののようにも思われてくるのである。

スターンは口モデル(音源の形態と楽音や声が強固な因果関係を結んでいたパラダイム)と耳モデル(声や楽音が空気振動の主観的な知覚として捉えられるパラダイム)に切断を見出しているが、「声の肌理」はおそらくどちらにも還元しきれず、口モデルと耳モデルの間で余剰として形成された声の身体性なのではないのだろうか。

という、いくつか気づいた点のメモ書き

初音ミク」が今提示している声の主体性の問題は、もうすこしさかのぼって考える必要があるように思われた。キャラクターの問題はまた別の問題なのだが。

■声の鍛錬(voice culture)
声関連で文献を探す過程で、もしかしたら身体鍛錬に平行して声の鍛錬もあるかもと思ったら、やっぱりあった。これはエンリコ・カルーソのもの。これは職業歌手についてのものだが、1900年代から1920年代にかけて、話し声や歌声の鍛錬について文献資料はわりとあるようだ。

Caruso and Tetrazzini On the Art of Singing (Dover Books on Music)

Caruso and Tetrazzini On the Art of Singing (Dover Books on Music)

Caruso's Method of Voice Production: The Scientific Culture of the Voice (Dover Books on Music)

Caruso's Method of Voice Production: The Scientific Culture of the Voice (Dover Books on Music)