ライブ/録音 つづき

明日からみんなアメリ音楽学会に行くらしい。行きたいけど、だいぶ遠いのでお留守番。

昨日書いたとおり、日本のライブ事情についてぐだぐだになりながら説明する。ひとまず、カイルは日本の録音受容についてエスノグラフィを提供しているけれど、なんだかアメリカ人から見て奇妙に見える事例を羅列しているだけのように思えたし、さらに最近の彼らにとって奇妙に見えるであろう事例を紹介する役割を与えられるのはしゃくだったので、そもそもライブ概念がどう形成されたのか、それが日本の録音受容と照らし合わせたときになぜ摩擦をきたしたのかを考えることにした。ライブ概念は録音との対立によって形成されたものだということを断ったうえで、ジョン・フィリップ・スーザの"The Menace of Mechanical Music"(1906)を取り上げ、ライブ概念が機能する文化的・経済的な条件について説明する。スーザの議論は、アマチュア演奏文化、感情表現、フォークロアの伝承、職業音楽家の経済基盤など多岐にわたるトピックを含んでいる。しかし、スーザは基本的には「演奏家」「演奏すること」を基礎にライブを擁護しており、演奏技能そのものが価値を持つ社会的な基盤を前提にしているように思われる(たとえばスーザを含め、職業音楽家や教育家は演奏技能そのものを商品にしている)。その上で、「演奏家」や「演奏すること」自体が文化的・経済的な価値を持たない文脈においては、ライブ概念はうまく機能しないのではないかと提案してみた。もちろん、日本も欧米の音楽文化を輸入しているから単純化はできないが、民謡やチンドンヤにおいては、演奏家や演奏すること自体はそれほど重要ではなかったりする。たとえば、チンドンヤは歩行者の注意を集めることを目的としているのだから、その目的にとって有用ならば、録音だって使うだろう、などと説明してみた。

我ながらかなり単純化された文化論だと思うが、外から聞くとけっこう興味深かったらしい。また置いてけぼりをくらって、みんな勝手に盛り上がっていた。でもライブ概念ってそんなに単純じゃなくて、演奏家の側が作ったものではなく、蓄音機の企業が作ったものでもある。たとえば、ジョナサン・スターンはそもそも録音とライブは比較されるものでも、対立するものでもなかったと言い、それらが対概念になり、録音をライブに近づけようとするようになったのはコンサートホールの聴衆を録音の経済の中に引き込むためだったと主張している。録音の経済から考えれば、ライブ概念は演奏家ではなく聴衆を、彼らの聴覚を基礎に据えているということになる。ライブは演奏家の経済と聴取の経済が絡み合うえらく複雑な概念なのになあ、と頭の中でもやもや考えていた。

ライブ/録音という対立にはあまり興味がなかったが(ディスク派だから)、オリジナルなものがそれほど単純ではなく、録音によって複数化されていることを考えるには重要な素材になると改めて思った。ちょっと気をつけておこう。