□読書会
次回の読書会の文献 Henry Jenkins, Convergence Culture: Where Old and New Media Collide

Convergence Culture: Where Old and New Media Collide

Convergence Culture: Where Old and New Media Collide

筆者は新しいメディアと古いメディア、複数のメディア産業、生産と消費が交差しあうインターネット以後の文化をConvergence Cultureと呼び、現在のマルチメディア環境においてテレビや映画等のメディアとその受容がどのように変化したのかをまとめている。ジェンキンスによれば、この著作は一般的な消費者や、生産者が現在の状況を測定するためのドキュメントとして利用されることを意図しているとか。

読書会ではリアリティ番組について扱った第二章を読む予定だが、まだイントロまで。

□その次の候補はLisa GitelmanのAlways Already New: Media, History, and the Data of Culture

Always Already New: Media, History, and the Data of Culture (The MIT Press)

Always Already New: Media, History, and the Data of Culture (The MIT Press)

いっぽう、こちらは「古いメディアが新しかったとき」を主題にしたもの。こういう文献が増えてきているが、メディア史の地層を分けたとして、その地層間のズレから「新しいメディア」の言説にどういった変動を起こしたいのかがいまいち見えてこない。

ただ、Lisa GitelmanのScripts, Grooves, and Writing Machinesはなかなか読み応えがありそうではある。初期のフォノグラフが書字や印刷に代わる「書きとり機械」として受容されていたことに注目し、

聞こえない音楽

博論の予備審査が終わる。途中段階のものを聞いていただくのは気がひけたが、議論が断片化しがちなので、全体の構想を聞いてもらえたというのは非常に良い機会になった。制度としてどうかは別として、聞いていただいた方々には感謝しなければ。学会発表よりも緊張した。声の身体というもの、乱用されているバルトの「声のきめ」を考えておく必要があった。後で考えてみると、バルト自身は「声のきめ」を身体の物質性に還元しているわけではなく、むしろ、欲望の対象として、幻想の身体として議論していたことを思い出す。そんなことを以前に書いていたことも思い出す(腹話術が可能なのもこのためだ)。腹話術的なものとして、死者の声として、サウンドキットラーの言葉を借りればリアルなもの)としてのレコードの声が、なぜ特定の個人を担うかのように想定されてしまうのか、それこそ考えなければいけない問題だった。主張を押し切るバックボーンを早めに作るべきだ。


Embodied Voices: Representing Female Vocality in Western Culture (New Perspectives in Music History and Criticism)

Embodied Voices: Representing Female Vocality in Western Culture (New Perspectives in Music History and Criticism)

Barbara Engh"Adorno and the Sirens: Tele-phonographic Bodies"
アドルノの「針とカーヴ」で少しだけ言及されていた蓄音機と男女の声の関係を発展させ、ジェンダーの観点からアドルノの複製技術論を解釈している。最終的には、技術(道具的理性)と男性の声の同一化、技術との同一化に抗う女性の声を、『啓蒙の弁証法』のオルフェウス神話の解釈をもとに読み解こうというもの。

■聞こえない音楽
池田亮司関係の資料を集める。

テクノイズ・マテリアリズム

テクノイズ・マテリアリズム

音楽と薬

■音楽と薬

だいぶ前に書いた音楽と医学の関係について考える素材として、「クスリ」音楽についての資料を集める。医学的な治療薬としての音楽と非合法薬物としての音楽と、薬物と音楽の関係といろいろ探してみる。最近では茂木健一郎が音楽について書いていた。モーツァルトを聞くとリラックスできるとか、昔に聞いたようなことを書いていた(そういえば、実家にも「モーツァルトと虫の声」というアルファ波がたくさん出るとかなんとか書いてるCDがあった)。言っていることはあやしいが、美的/パトローギッシュな享受、精神的/肉体的な享受、芸術/ポピュラーの境界線のまわりをどうどうめぐりしているだけでは、音楽研究は茂木さんのような人に何も言うことができないなあと思った。

とりあえず、音楽と医学の歴史をさらっておこう。

Music as Medicine: The History of Music Therapy Since Antiquity

Music as Medicine: The History of Music Therapy Since Antiquity

■本

Making Easy Listening: Material Culture And Postwar American Recording (Commerce And Mass Culture)

Making Easy Listening: Material Culture And Postwar American Recording (Commerce And Mass Culture)

聴衆の生産

Victor Talking Machine Companyが出版していた本を集める。

The Victrola Book of the Opera: Stories of the Operas

The Victrola Book of the Opera: Stories of the Operas

What We Hear in Music: A Course of Study in Music Appreciation and History

What We Hear in Music: A Course of Study in Music Appreciation and History

Music Appreciation: For Little Children in the Home, Kindergarten, and Primary Schools

Music Appreciation: For Little Children in the Home, Kindergarten, and Primary Schools

先日も書いたように、初期のVictorはオペラ・レコードのシリーズなど「ハイ・クラスな」音楽による文化的な統合(階級だけでなく、増加を続けていた移民も)を標榜していたことから、近年ではしばしば批判の対象となっている(レコード産業が終わりを迎えたせいか、2000年あたりからこういう研究がだんだん増えている)。しかし、こうした研究が見落としがちなのは、こうしたプロジェクトはVictorにはじまったものではなく、それ以前の楽譜出版や自動ピアノの販売でも行われていたということだ。もちろん、先行研究の中にはそれら従来の家庭内メディアのコンテクストと蓄音機の接合のプロセスをVictorに見出しているものもある(Jessica Foy"The Home Set to Music"など)が、どちらにせよ、これらの研究は社会的な緊張関係と音楽によるその解消のプロセス(ほんとうに成功したのかどうかは分からないが)に注目するあまり、蓄音機とほかの再生メディアの差異を解消してしまっているように思われる。

当然、Victorは他のメディアとの差異を意識していたし、多数の著作によってそれを明確化していもいた。その中心となっていたのが「音楽鑑賞music appreciation」のようだ。Victorの著作では、蓄音機はアマチュアの技能を越えた音楽の鑑賞を可能にするだけでなく、適切な聴取態度の習得に役立つものとして説明されている。(もちろん、アマチュアとプロフェッショナルの相違は蓄音機以後に先鋭化されたものである。多くの人はプロの演奏を聞いたことがなかったのだから。)Victorと関係があったのかはまだ分からないが、1910年代にはThe National Association for Music Educationも、蓄音機を用いた音楽鑑賞の教育を推進していたようだ。これらの運動がどれほどの効果があったのか分からないが、音楽行為そのものの転換が試みられていたことは確かである。しばらくは、この演奏と聴取の専門分化によって、初期の音楽産業がレコードの聴衆をどのように生産していたのかを考えてみる。

1900年代から1920年アメリカのレコード産業でのオペラ歌手の受容を調べはじめる。William Kenneyによれば、この時期にオペラが受容されたことは、蓄音機が家庭内のメディアとして流通しはじめたことと関連している。初期のフォノグラフ・ショーやパーラーが、プリミティヴな音楽、南部の黒人音楽、コメディ、ミンストレルなど空間的な距離をへだてた珍奇なものを雑多に提供し、あるいは技術そのものの驚異を強調していたのに対して、1900年代のビクターがとった戦略は家庭生活の一部にフォノグラフを組み込み、技術そのものではなく、娯楽・教養のための音楽を定期的に供給することにあった。こうした文脈において、オペラ・レコードは企業による娯楽・教養の規範化・階級化のプロジェクトとして理解されているようだ。

Recorded Music in American Life: The Phonograph and Popular Memory, 1890-1945

Recorded Music in American Life: The Phonograph and Popular Memory, 1890-1945

アメリカの家庭内での音楽受容について、この文献をチェックすること。とりわけ、ジェンダーの問題が重要のようだ。中産階級の家庭では、ディスクを選択して購入し、保管し、家族のために再生する役割を女性が担っていたようだ(ピアノ演奏から引き継がれた習慣らしい)。

The Piano in America, 1890-1940

The Piano in America, 1890-1940

僕が関心を持っているのは、オペラ・レコードがオペラ作品を指すのではなく、オペラの歌唱法で歌われた音楽一般を指すということ(民謡やポピュラー・ソングも録音された)。教養とはいわれつつも、オペラ受容は実際には作品や作曲家をメインにしたいわゆる教育的な音楽史からはずれ、作品や歌というよりも歌唱そのものに関心が置かれていたようだ。

Herman Klein and the Gramophone: Being a Series of Essays on the Bel Canto (1923 THE GRAMOPHONE AND THE SINGER)

Herman Klein and the Gramophone: Being a Series of Essays on the Bel Canto (1923 THE GRAMOPHONE AND THE SINGER)

声のトポグラフィ(2)

論文を直しているうちに、いつの間にか春になっていた。桜も散っていた。とりあえず、ひと段落ついたので、次にとりかかることにする。声のきめの続き

だいぶ前に書いた精神分析的な議論では、声は身体に還元されず、内部に隠された欲望の対象を現前させるものとして議論されていた。対象としての声は物理的な身体に還元されないからこそ、演劇で他の人物を演じることや、腹話術や憑依のような不気味な現象を成立させるのである。このように考えると、声の帰属関係は単一なもの(声‐身体‐私という人格の一致)として捉えることはできなくなる。

このことを声一般の問題として考えると、えらく広がっていきそうなので、歌声で探してみたらいくつかの文献が見つかった(Edward T.Cone, The Composer's Voice、Simon Frith, Performing Rites川田順三『声』)。ConeとFrithの対比はオペラとポピュラー音楽の声―歌手―作品の関係を考える上で参考になりそうなので、簡単にまとめてみる。

古文書ツアー

古文書ツアーに行ってきた。考古学的な調査方法、ローカルな政治経済と研究機関の関係、銀山観光のマネキン(あきらかに白人の顔をした代官の人形)などなど、いろいろと考えることのある旅だったが、過酷なスケジュールをとりあえず耐え抜いた。

ふだん依拠する文献資料が印刷文字に限られているのもあって、古文書を読むというのはおもしろい経験だった(まあ、読めなかったのだけど)。

■文献

NHKブックス別巻 思想地図 vol.1 特集・日本

NHKブックス別巻 思想地図 vol.1 特集・日本